絶版になった本

・1990『日本人の表現力と個性――新しい「私」の発見』

(中公新書、絶版)

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日本語が話し手(語り手・書き手)の視点しかもっていないことから、世界の中でもユニークな文化を創ってきた経緯を、芸術一般の表現力が西欧とどう違うかを比較して論じた日本文化論。

 例えば芥川龍之介の「藪の中」は

真相は「藪の中」で、解明不可というのがこれまでの読みだったが、ぼくは、作者の意図は、武弘自殺を読者が読み解くように作ったと読む。その訳は、芥川の『こゝろ』が自殺に傾斜していった時期でもあったからだが、何よりも残された証拠品のありようが、武弘の自殺以外にはありえないように、作者が作っているからだ。

   ここには、芥川龍之介という、まぎれもない苦悩する「私」がいる。真相は、いくら見つけようとしてもみつからないこともある」などと、哲学的な知ったかぶりをする衒学などがモチーフではない。従来のそのような解釈は、師匠である漱石の『文学論』の「F+f」が否定するだろう。真相不可知論には、文学が「必須」とする「f=情緒」が、明らかに欠如しているから。


・2006『漱石のたくらみ 秘められた『明暗』の謎を解く』(筑摩書房、絶版)

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1916年12月31日の大晦日に228回で完成するはずが、漱石の胃潰瘍悪化によってあと40回分を残した未完の大作。

 結果的に、この小説もオープン・エンディング(読者のために開かれた結末)だが、主人公の「変身」は、中断した部分まで読めば、ほぼ想定できるように書かれている。これまでの読み方は、ほとんど悲劇的な結末を予想してきたが、ぼくの読みはハッピイ・エンディング。

   「....手術台の上から津田を下した」(1)  vs.  「下から上ってきた医者は...」(115)  

単簡な「上」と「下」を書き分けることで、全体の構造を暗示するということが、『明暗』という作品を芸術にしている。こんな技術を駆使した文学を、他に誰が作れたか?

・2009『漱石の変身――『門』から『道草』への羽ばたき』(筑摩書房、絶版)

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谷崎潤一郎「『門』を評す」によって、こんな夫婦は世の中にいないから、この小説はダメとレッテルを貼られて漱石を悲観させた労作。これは漱石の自信作でもあり、皆が誤読してきた傑作。そのモチーフは、アメリカ文学の「自伝」的短篇小説の傑作 Raymond Carver, "Blackbird Pie"  と同じ!

 漱石が冒険者として大海に乗り出す準備段階を描いたもの。ロンドンから帰って『吾輩は猫である』の第1回を書き、作家として生きる決意までを描く『道草』がその姉妹篇。この2作は、作家誕生の自伝的な作品として、誤読してはならないもの。その構造美と倫理観が、芸術の「真善美」を表出してすばらしい。

   孟宗竹の生える崖上に住む大家さん (この『門』を書いている漱石) と、その崖下に住んで、これから冒険者になろうとしている若き漱石の、微笑ましくもユーモラスな交遊物語。自作の中で漱石が一番好きでもあり、よく出来たとした自信作。谷崎潤一郎をはじめ、この作品が漱石が願ったように読めなかった面々は、今愧じるべし。