助動詞「けり」の誤読(その1)

「ケリ」は「キ+アリ」で、「キ」という過去回想の助動詞と存在を意味する「アリ」が音声的に融合してできた助動詞。

        <e=i+a>: <ki+ari=keri>と音韻変化したもの。

 

日本語が古くは八母音あったうちの、<e>は、いわゆる「甲類のエ」といわれる母音の一つで、<i+a>をこの順序で発声してできる母音。唇を<i>とまず横に引き、その唇を維持したまま<a>と発音しようとすると<e>となる。この<e>は、已然形に現れる<ë=a+i>(乙類のエ)と違って、<ë>のほうは、先に<a>と口を開け、そのまま口のかたちを保ちつつ<i>と発音しようとしてできる母音。このふたつの「e/ë」は、動詞の表出する時間的な様相が異なっていて、重要な意味の違いを、古代の日本人は言い分けていたことになる。

 現代語の表現で、命令の意味を、例えば関西方言で<書け>という意味で<書きア>とか、<離せ>という意味で<離しア>ということがあるが、これが古い日本語の命令形の<e>の原型をそのまま伝えているようだ。つまり、命令形は、<i>という「将然形=将にイマ事態が起こったことを認識する瞬間」に使われる母音が、まだ「事態が起こっていない、開かれた<a>の状態」であることを相手に認識させようとしての発話パタンと考えられる。つまり、<i+a=e>すなわち「ひらke」とか「よme」というとき、相手に動作を促す(まだ動作が行われてイマセンヨ)の意味を伝えようとしているのだ。そのときの最終母音が<i+a>→<e>と分析される。

 

前置きが長くなったが、「ケリ(ki+ari=keri)」は、「キ」という「過去の動作/作用」を回想する時に使う助動詞「キ」に「アリ」という,日本語で一番大切な「存在」を表現する動詞が、助動詞として使われた表現。つまり、「ケリ」は〈過去の事象の「動作主体」がイマ話者の脳裏に蘇っている(回想されている)>という意味。それ故、「けり」が伝える本質的な時間は<イマ>という発話の時間に「過去の動作主体が話者の脳裏に回想されている」ことを意味する。だから、「ケリ」は過去の動作(作用)自体を意味しない。

 現代語の助動詞「タ」は、古語の「ケリ」の意味を含む。「ケリ」は中世に,もう一つの助動詞「タリ=テ+アリ」に吸収されて「タリ」となり、その「タリ」が明治以後「タ」と簡略化された。しかし、「ケリ」の意味は「タ」にも今日まで継承されて、「話者が発話しているイマ、過去の動作・作用の<主体>が話者の脳裏に現前している」ことを意味する。

 

明治以降、西欧語を学習してその<テンス>の存在を知った日本人が、西欧語の「過去形(past tense)」の和訳に「タ」を流用して、混乱・誤解が生じた。もともとこの二つの表現には「互換性」がなかったのに、ほかに選択の余地がなかったので、やむを得ず使ったのが、そもそもの間違いだった。しかし、今日、文科省はこの間違いを認識していない。

 それどころか、西欧語を翻訳させて、西欧語の過去形が「タ」で置き換えられていればよしとしている。これでは、本来の日本語の意味が、二の次になって、どこかに置き忘れられてしまうし、西欧語の過去表現も、きちんと学習できなくなる。

 

本居宣長のころから、「ケリ」を口語訳するとき、その意味をしっかり捉まえることが疎かになった。たとえば『古今集』331番、紀貫之の歌ーー

 

    雪の木に降りかかれりケルをよめる

  冬籠り 思ひかけぬを 木の間より 花と散るまで 雪ぞ降りケル

  (本居口語訳: 今ハ冬ガレデ、マダメモデヌアノ木ナレバ、思ヒガケ

   モナイニ、枝ノアヒダカラ花ノチルト見エルホドニサ雪ガフルワイ)

 

宣長は、この歌は詠歌の時点で、「雪が降るわい」、つまり雪が降りつつある歌と見ている。しかし、「ケリ」の意味は、ただの詠嘆ではなく、過去の動作主「雪」が「降りキ」という「過去の動作を回想する」助動詞「キ」が「存続する状態」にあるという意味を無視できない。つまり、雪はすでに降っていて、その「動作主」である雪がイマ、この詠歌の時点で「ある(存在する)」意味を「けり」によって表現する「かたち」だ。すなわち、雪は積もっているのであって、降りつつあるのではない。

 歌の意味は: 冬ごもりしていて、思いがけなくも、花ガ咲いたかと木の間から見えるほどに、雪が降ったなあ。

 だから、この詞書も、「降りかかれりケル」となっていて、「降って雪が木の枝に懸かっていたんだ(つもっていたのに気づいた)」という意味だ。

   因みに、「かかれり」は、「かかri+ari→かかreri」と、ここにも「存在の助動詞アリ」が使われている。つまり、二重に「かかり+ari+き+ari」と、「かかレリケル」は、イマという時点に存在する現実が、過去の時点の「現実(かかれり)」を回想して、表出されているのだ。

 

宣長の間違いは二つある。「かかれり」は「かかり+あり」だから、ここも「かかる」動作の「存続態」、つまり「かかっている(ひっ懸かっている)」意味だから、これは木の枝に積もっている意味しかない。その場の現象としても、この歌は積雪を詠っているのであって、降雪の歌ではないのだ。つまり、宣長は、詞書を読めていないことになる。

 

どうしてこんな間違いが起こるのか。それは「あり」という日本語で一番大切な動詞を助動詞として使っている、現代の国語文法で「り」(命令形接続)と生徒に教えていることが、諸悪の根源にあるということ。この助動詞は本来「あり」であり、「り」ではない。[kakareri」は「kakari+ari」→「かかれり」なのだから、「かかれ(命令形)+り」ではなく、「かかり(連用形)+あり」なのだから、見かけは命令形でも、助動詞が命令形につくという非文法を平気で教えている文科省は、「羊頭狗肉省」というか、「偽装省」とでも改名しなければならない。かれらの犯しているのは、日本語について判っていない人たちが運営しているという自覚がない、つまりは、犯罪を犯している自覚がないこと。

 

こういう文法規則を、国家の大事業である入学試験制度にまで強制して、子供たちの頭をダメにしていることを、文科省の役人は認識しなければならない。こんなまやかしをやっていたら、そのうち日本はつぶれてしまう。憲法を「改正」する前に、まず日本語文法の書き換えが先決問題だ。

 

本居宣長の古今集解釈に縛られていては、どうにもならない。331番歌のどこにも、雪がふりつつある事象など、あるはずがない!!

 大学者と言われる宣長がそう誤読したのを、権威あるものとして、現代の注釈書が受け継いだ結果、ほとんど全部の注釈書が読み違えている。驚くべきコトだ。こういうときこそ、ポストモダニズム(あらゆる権威の排除)でいこう! 宣長の学問は怪しい。そういう意味では、小林秀雄の『本居宣長』も! 

  

『源氏物語』千年の誤読の原因も、「御法」巻の急所にある重要な一文―― 「……二条院にてぞしたまひケル」を読み間違ったことに始まった。

 

 

 

助動詞「けり」の誤読(その2)

宣長の学問を権威と考える学者たちによる、「けり」についての軽視の例、例えば小学館『古今和歌集』(日本古典文学全集1994)

 

「けり」が使われている歌(長歌を除く、また詞書の用例を含まない)はざっと200首あるが、その約三分の一(60首以上)の口語訳には、「けり」がもつ<過去回想>の意味が含まれていない。

 

例えば、宣長が(前項「その1」参照)誤訳した331番歌を見ると――

 

      雪の木に降りかかれりけるをよめる

  冬こもり思ひかけぬを木の間より花と見るまで雪ぞ降りける

      雪が木の枝に降りかかっていたのを詠んだ歌

  すべてが冬ごもりの時に、思いかけなく、木の間から花と見まがうように雪が降って

       きたことだなあ。

 

とある。注釈に「降る雪を落花に見立てた」と、雪が降りつつある景色と読んでいる。「降ってきたことだ」という訳は、原文が「降り来る」となっていないのだから、この間違いは、詞書「かかれり」が読めなかったことに起因する。原文の「かかる」は「懸かる」(ひっかかる)の意味なのに、これを「仕事にとりかかる」ような意味で、「し始める」に誤読したことからの誤読だ。

さらに、詞書の原文は、「雪の木に降り……」となっているのに、わざわざ「木の枝に降り……」と、余計な文言を追加している。これも「ふりかかれり」の助動詞「あり」を誤読したからで、現在進行中の動作、つまり「降りつつある」と誤読しているからだ。ここは、「ふりかかる」動作の結果の<存続>態であって、つまり、「雪が木に積もっている」意でなければならない。「木に降りかかれり」と「木の間」の二つの「木」の意味が判らないので、その差異化をはかるための「枝」の挿入らしい。

 

このように、判らないことばを補おうとして、間違った言葉を使う結果、訳文は原文とは全く違う意味になってしまう。この歌は花が散っている歌ではなく、咲いていると見立てた歌で、その誤読が起きる原因は、「けり」が現実の「イマ」を表現しているのではないことが、全く判っていないことにある。

 

これでは平安文学の権威失墜だ。出版以来20年以上が経つにもかかわらず、未だに訂正しようとする学者が現れない。研究者たちは、何を恐れているのだろう、このポストモダンの世に!

 

同様の間違いの新全集本口語訳の歌番を列挙する:

1,9,19,24,25,26,39,40,42,56,60,73,89,97,100,105,146,179,188,189,219,242,250,256,260,274,297,323,331,340,341,363,390,458,475,477,479,513,517,522,527,530,544,546,564,575,596,597,626,628,706,769,790,836,838,840,864,866,868,883, (ここまでで60カ所、ぼくの見落としもあるかもしれない。3、40分目で検索しただけで、こんなに見つかる!)

 

『古今集』1番歌:

〈年のうちに春は来にけり・・・〉

 

「年内だというのにもう春がやってきたよ。」(新全集、p.31)というのでは、「けり」がもつ過去回想の意味が表出されていない。「春は来ぬ」といえば「春はきたよ」の意味で、その上に「けり」の意味を加えなければならないのだから。冒頭の歌の口語訳からしてこの有様なのだから、この感性では印象的で恣意的な注釈にしかならない。そもそも、「春は」とあるのを「春が」としてはいけないだろう。

 

ことほど左様に、ごく初歩的な誤認識を、まずなんとかしなければならないのが、この分野の現状なのだ。

 

         

「けり」の誤読(その3)

今年出版された名古屋国文学研究会編『風葉和歌集新注一』(青簡社2016)も同じような問題がいくつも指摘できる。210首中30首ほどある歌(詞書の用例を数えない)に使われている「けり」について、およそ三分の一の口語訳に、過去回想の意味が感じられない。その11首を列挙すると――

22 たち出る山ぢをだにもみるべきにつらきは春のかすみなりけり

22 あなたの家を出て辿ってきた山路をなりと見たいのに、憎らしいのは立ちこめて見せてくれない春の霞ですよ。 

 

35 かぜふけばさそはれぬべき梅花たゞかばかりのえにこそありけれ

☆梅の花は風が吹くと誘われてしまうにちがいありません。梅の花にたとえなさるなんて、ただすぐ消えてしまう香ほどの縁なのですね。

 

48 春の夜もみるわれからの月なれば心づくしの影となりけり

☆こののどかな春の夜の月も、見る私次第のものですから、私には、物思いのありったけを尽くさせる秋の月と同じなのです。

 

67 君がすむながれひさしきしらかはの花ものどけきにほひなりけり

☆法皇が穏やかに長い間お住まいになっている白河院は、花も穏やかなようすで、美しく咲いております。

 

74 われのみぞありしにもあらず成にける花はみしよにかはらざりけり

☆私だけが以前とちがう境涯になってしまったことよ。この宮中の桜は私の在位中と変わらずに美しく咲いていることです。

 

82 いつとなくおほ宮人の恋しきにさくらかざしゝけふもきにけり

☆いつも都の人々が恋しいけれど、宮中で桜をかざしたあの日が巡ってきた今日は、とくに恋しいことです。

 

85 こゝのへのにほひはかひもなかりけり雲ゐのさくら君がみぬまは

☆宮中の、匂うように美しい桜も何の甲斐もありません。あなたがご覧になって下さらない間は。

 

106 おほ空の風にまかせてちるよりはおりとめてこそみるべかりけれ

☆大空を吹く風にまかせて散るのよりは、桜花の美しさは、手折り留めて見るべきものなのですね。

 

110 春の日のうらゝにさして行船はさほのしづくに花ぞちりける

☆春の日差しがうららかに射している中を漕ぎ行く舟では、棹から落ちる雫に花が散っています。

 

133 ゆく春はとむへきかたもなかりけりこよひながらに千代はすぎなむ

☆過ぎゆく春は留めるべき方法もありません。今宵のままで千年が過ぎてほしいものです。

 

208 みそぎするけふはかはせの白波もおほぬさにこそたちわたりけれ

☆身の穢れを洗い清める今日は、川の浅瀬の白波も、まるで大きな串につけられた幣が立ち並んでいるように続いていることです。