J.D.Salinger, <The Catcher in the Rye>

・Murakami Haruki's misinterpretation: an introduction

・The structure: classic 24 sections plus a 2-part framework

・The theme:  ???

 

アメリカでは高校生の必読書として推薦しているところと、していないところがあるといわれて、その評価もまちまちな「名作」。生徒に悪影響を及ぼすというので読ませないという高校もあるという。読ませる学校の高校生用にアンチョコが色々出ていて、怠け者のために、宿題の答えを<コピー・ペイスト>できるようにサイトがある。

 

 ”SparkNotes”とか”CliffsNotes”とかいくつもあり、その中の”Shampoo”というのを覗いてみると、<Themes>として: Innocence, Mortality, Youth, Isolation, Sexuality, Sadness,     Wisdom & Knowledge, Lies & Deceit, Madness,  Religion などというように、<theme=主題>がいくつもあると、解説している。まさにポストモダンの文学観で、読者はなにをどう読んでもOKという立場。


”GradeSaver”というのも同様に、Painful Experience vs. Numbness, Love and Sex,

 Loss of Innocence, Phoniness & Authenticity, などなど、ほとんど何を問題にしてもOKだ。どのアンチョコを見ても、主題はこれだと主張するものはない。これでは作者が悲しむのも無理はない。実際、サリンジャーはこうした読者に愛想をつかして、隠遁生活をおくって死んだ。外国語に翻訳は自由だが、訳者の解説を訳本に載せることを禁じた。訳者が正しく読む能力を信じなかったからだ。それは、自国での読者がまともに読めていないという認識に拠る。

 

日本でも白水社から野崎孝訳『ライ麦畑でつかまえて』と、村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』が出ているが、どちらにも解説文はない。村上は自分の翻訳をいつも友人の東大教授、アメリカ文学が専門の柴田元幸に頼んでチェックして貰っているようだが、この二人が書いた『サリンジャー戦記』の解説は、上記のアメリカのアンチョコよりもっと酷いものだから、あきれてしまう。

 

かれらの主張では、サリンジャーは目標を定めないまま書き始め、行けるところまで行ってみようとする、ブラックボックスのような作品だと主張している。どういう読み方もできてしまうから,いい作品だと言う。「主題」を考えるなど時代遅れと言わんばかりで、自分たちの翻訳のよさを自慢して、鼻高々なのだ。こんな作家にノーベル文学賞を与えてもいいものだろうか。(毎年候補にあがっているとのことだが、ノーベル賞の名誉のためにも、日本文学の名誉のためにも、与えてほしくない。)

 

ぼくはサリンジャーこそノーベル賞に値する作家だったと思い、昨今の原理原則をもたない文学論にも失望し続けている。実際、いままでに、<The Catcher>の主題を的確に指摘した論文がない、本国のアメリカでさえ! 村上訳の誤訳の第一は、原作が<The Catcher ……>なのに、訳本のタイトルは『キャッチャー・イン・ザ・ライ』と、定冠詞の<The>をわざと(だと思うが)外していること。ということは、キャッチャーは特定のだれかではなくてもいいという解釈なのだろうか。それとも日本語では<The>がなくても、特定されているという意味だろうか。

 

ともかく、原作の特定された主人公を敢えて外す理由は、日本語ではこの<ザ>は不要という主張なのだ。村上・柴田の誤解、というよりも認識不足は、そもそも英語の文学が日本語に翻訳できると思っていること。これが、現在世の中の常識で、ぼくの主張が非常識であることを、重々承知の上で、この「誤訳」をテコに、ぼくの言語論をここから始めたい。