2017/9刊 三つの純心物語

鴎外「我百首」(1909): 短歌100首によって、エリーゼ・ヴィーゲルトを失った悔恨の半生を物語る

J.D.Salinger <The Catcher in the Rye> (1951): 出版以来「つかまえ」られなかった主題を分析

Raymond Carver <Blackbird Pie> (1986) : 創作への別れを語るカーヴァーの「山月記」

 

四六版 アンカット・フランス装  定価1,222円+税

紫式部が『源氏物語』と『紫式部集』で使った、和歌を<31>首ずつ5-7-5-7-7首に並べて意味の大きな括りとする技法を、一千年後に鴎外が独自に考案した! 二人の芸術家の意図が図らずも一致した和歌(短歌)集の構築原理

    絶望的な鴎外の「こゝろ」が、この「家集」で明かされた感動作。森林太郎として、何の栄誉も肩書きもつけない人間としての自分を見つめての自己評価を、100首の歌で綴った遺書。

 サリンジャーカーヴァーが、本国のアメリカでも誤読され続けてきた理由を解明。それぞれの代表作が、こんな感動的な芸術作品が、なぜ誰にも(この二作を翻訳した村上春樹にも)読めないのか?? それは、文学テクストの隠された数理を無視するからだ。

    サリンジャーは、テクスト全体を26の部分に分け、最初の2<章>をイントロ部分とし、後の24章を古典的な6章ずつの<起・承・転・結>としている。

    カーヴァーの切り口は、12ー24ー57ー5(total98)のパラグラフで、全体は4つの部分が、これも<起承転結>なのだ。さらに瞠目すべきは<転>部の57パラグラフの内部が、<14x4+1>というように細分化されて、14行詩が4つ並んだあとに、結語としてのパラグラフが一つ付くという、詩的な構造体だ。このsignifier<形式>が見えなければ、作品全体のsignified<意味>は捕まらない。

    この三作品は、どれも作者の<こころ>の真実を、詩的な(ということは芸術的に最も高い)形で表現している。それぞれの作家が己れの悲惨な人生にあって、真実を作品に深く埋めて作った傑作。こうした作品を完成できたとき、そこに自分にしか味わえない至福の時が訪れたことだろう。

 ぼくはこうした作品に出会うことで、この世の惨めさから救われた。作者と共有できた至福の時!