<『紫式部集』のちから相撲>: その批評と反論

 

 皆さんからの批評文にお答えするまえに、総論として言っておきたいことがあります。Eさんへのお答えにも書きましたが、ぼくの文学論の根底には、拙著で何度も強調しているように、作品の「かたち」が「意味」と相関関係にあるという理念があります。p.15-6に、「文学形式と内容(構造と意味)の原理をわきまえない文芸評論は、文学の本質を知らない人の、取るに足りない恣意的な議論でしかありません」として、ぼくの仮説を証明すると宣言しています。 

 ですからぼくへの反論として、31首ずつに括られた「かたち」は、ぼくの幻想に過ぎず、「本当はこういうかたちだ」という代案が示されなければ、議論になりません。しかし、ぼくの見た「かたち」は『紫式部集』だけのものではなく、『源氏物語』の歌が589(=31x19)首あることの理由(傍証)でもあるとしました。この統一性が、『紫式部集』を<『源氏物語』の物語>という主題をもつ文芸作品にしていると見るのです。

 拙論の主旨はp.18までの「はじめに」に尽きています。その前提に問題があれば、それをまず指摘していただきたかったのです。ぼくがことさら数を問題にするのは、そこに文学的な論理を認めるからです。589首という数が、「幻」巻まで書いてみたら、たまたま589首になっただけであって、31x19=589がぼくの幻想(「根本的なところで問題があると、常づね思っているのです」)とおっしゃるEさんの反論として、ぼくはこの<『紫式部集』のちから相撲――メイキング・オブ・『源氏物語』>を書いたつもりです。ぼくの考えが幻想ではないことを、前著<『源氏物語』深層の発掘』――秘められた詩歌の論理』>で明らかにした積もりです。その決定的な証拠が、紀貫之の『古今集』#589の一首にあり、紫上の最後の歌を「絶唱と位置づける、作者の秘された超絶技法の一部」(p.303)と書いた理由です。

 

1 Aさん                           
 まずは、本の体裁について。やはり詞書よりも歌の方が低い位置にあるのは、読みにくく感じました。慣れていないせいだと思います。
 次に、本の内容について。
① 紫式部集を31首のくくりで考える、という発想が面白いと思いました。しかし、その場合93番と94番の贈答歌が別のくくりになってしまいます。贈答歌を切り離して別のくくりにする、という所に不自然さを感じました。

(熊倉)「転」から「結」への過渡的な2首として、#93と#94を配置したと見れば、「別のくくり」のために、式部が敢えてこのようにアレンジしようとしたと読めないでしょうか。西洋音楽の世界では、協奏曲の第二楽章から第三楽章を連続して演奏することは、曲全体の一体感のためにしばしば取られる手段です。拙著では、#94(結部の冒頭)に、敢えて式部以外の人の歌を置いたのを、#128(これも他者の歌)との統一性に意味があるとしました。
② 二行空白、四行空白には、熊倉氏が指摘されているような意味があるのでしょうか。31首が一つのくくりだとすれば、なぜ31番歌のあとに空白を置かないのか、なぜ17番の後は2行で、79番の後は4行あけたのか、今一つ納得がいきませんでした。

(熊倉)「二行」は詞書と歌で二行分と考えれば、四行空けてあるのは二首分ということです。Eさんへのお答えで、「穿った」見方を示しましたが、ぼくは当たらずといえども遠からずな議論だと思っています。3首分を省かなければならない理由が、全体を131首の歌集にしたくないからだ、と式部がと考えたとするのです。二行空白の方は「かへし」の歌がないように置かれていますが、四行空白の方は、#79と#80との間に2首省かれています。ですから、こちらは式部がやりとりした相手が、#79と#80とでは同一人物ではないと考えればいいでしょう。#80からは、宣孝との結婚に踏み切る最終確認の歌が並んでいて、#79までとは歴史的な時間を区切る必要があるのです。

 31番歌のあとに空白を置かない理由は、見え見えなところに、見え見えな区切りをつける意味がないからです。式部ほどの芸術家は、自作の秘密を隠そう隠そうとして、あからさまなヒントを読者にくれたりはしません。

③ 素数番の歌に着目されている根拠がよくわかりません。75ページでは、素数番の歌の第一音節を並べると「なついにし(夏往にし)」となると書いていらっしゃいますが、そのあとの素数番の第一音節を並べても意味のない言葉となります。「なついにし」に熊倉氏が考えていらっしゃるような意味があるのか、そもそも素数番の歌がそれほど意図的に配置されているのか、よくわかりませんでした。

(熊倉)ぼくの「勇み足」としてください。ただ、式部の人生で「ほととぎす」の声を待ち望んでかなえられなかった「恋の季節」が逝ってしまったあとは、詠う意味がなくなったことの比喩的な表現で、初句だけで終わっていると、こじつけたかっただけです。
④ 次は単純な疑問です。51ページ、140ページで、18・19番の贈答歌は宣孝とのものだと力説していらっしゃいますが、岩波文庫「紫式部集」18番の脚注にも、「浅からず頼めたる男の、心ならず肥前国へまかりて侍りけるが、便りにつけて文おこせて侍りける返事に」(新千載集、恋二、一二三一)とあります。この新千載集の詞書を使えば、もっとすっきり説明できたのではないでしょうか。

(熊倉)その通りなのですが、注釈をつけた南波自身が<『新千載集』の詞書は信頼しがたい>(『全評釈』p.109)として、女友だちへの返歌だとするので、ぼくは清水好子、山本利達、田中新一など、皆さんが誤読していると「力説」しなければならなかったのです。
  但し、18番の「鏡の神や空に見るらむ」の解釈については、熊倉氏が、係助詞の「や」に疑いの意味がある、と指摘されている通りだと思います。
  岩波文庫の注も「見るらむ - 照覧されているだろう」とあり、係助詞の「や」が訳に反映していません。
⑤ 紫式部集の歌が源氏物語の歌と対応している、というご指摘はどうなのでしょう? 説明に挙げられた歌を見れば、なるほどと思う所もありますが、何か騙されているようでもあります。源氏の歌をきちんと読んでいないので何とも言えません。皆様のご意見を伺いたいと思います。

(熊倉)「源氏物語の歌と対応している」のが具体的にどこをさしているのか判りませんので、的確な反応ができませんが、例えばp.21の「知らで」の対応には自信があります。それぞれの作品の配置(かたちsignifier)が相似形だからです。これを「何か騙されているよう」とおっしゃるのであれば、あとは水掛け論になるだけですが、この「知らで」の一句に、ぼくは式部の「こゝろ」を知って感動するのです。ここに『源氏物語』の作者が確かにいる、と。

 源氏が晩年まで「己れを知る」という人生の重大事を疎かにしたことと、式部が雪との対比で自己認識を示したこととの落差は非常に大きいので、この二首は、『源氏物語』の主題に関わって意義深いと考えます。式部は源氏の自己認識のなさを紫上の不幸の根源にある重大事だとして、源氏の生き様を批判するために、『源氏物語』を書いたというのがぼくの結論です。その主題を読み取れない、小少将やほかの読者に向かって、式部は「憂さのみまさる世」に対する絶望の深さを語っているのです。

 それぞれの作品の中で、鍵になる歌をどこに置くかが、「かたちと意味」の連携を確実なものにするわけですから、『源氏物語』の中で源氏の歌221首の217(31x7)首目に「知らで」と表現することは、源氏の一生を総括する意味を、ここに読み取らなければなりません。そのあと、源氏の歌は「辞世」の4首を遺しています。全く同じ「かたち」が、『紫式部集』の124(31x4)首目の「知らで」なので、そこでも式部は「辞世」の4首を残す「かたち」をとっています。こうした作品の「統一性」こそ、芸術作品の価値なのだというのが、ぼくの芸術論です。


2 Bさん

 紫式部集を統一した歌集として読むという果敢な挑戦「力わざ」に敬意を表します。私自身といえば、紫式部集を一作品として全体像について眺めようといった体験をして来なかったことに気づかされました。歌集の一部もしくは紫式部その人を知りたい読みであることを反省しつつ、読み進めました。ただし、長年、作者が生きた時代の文学をとりまく環境、および思考のあり方に近づいて、できるだけその時代にもどして作品を見つめようという立場でやってきました。拠って立つ本文(テクスト)の伝流のあり方には、真っ先に注意をはらってきました。
 ですから、熊倉先生が拠ってたつ本文が、南波弘校注『紫式部集』で、紫式部本人の思考、歌集の組み立て方に直結して考える方向性に、なじめませんでした。(熊倉)パラグラフの途中に割り込んで申し訳ありません。「紫式部本人の思考、歌集の組み立て方に直結して考える方向性」が、なぜ「できるだけその時代にもどして作品をみつめようという立場」と両立しないのか(つまり、なじめない、とおっしゃる意味が)よく判りません。ですから、ここは素通りすることにして、……

現存する最古写本の実践女子大所蔵の定家本『紫式部集』よりも、お触れになっていますように、江戸期書写の陽明文庫本の方が、より古態であると私はかじった程度ですが、また論文を読んだ程度ですが、認識しておりました。現在の研究者たちは、定家の手をくぐった「定家本紫式部集」のように捉えていると思われます。定家本人の手かどうかはわかりませんが、南波校注本は「定家本」に和歌をさらにプラスしてありましたので、第何首目にあたるか「数理」を「紫式部」その人の考え方として判断材料にするには、疑問を持ちながら読み進めました。(具体的な例として、♯66~72など陽明文庫本に「日記哥」として別掲。小少将が関わります。さらには、歌集末尾も大きく異なります。) また、今までの校合体験から空白行や空白文字をことさらに置くのは、書写の際に本文に何らかのキズがあることを示すものと読んでいましたので、その点からも、紫式部に「直結」するのは難があると思ったのです。

(熊倉)「古態」を留めていたはずの陽明本の元本にあたる本は、江戸期までに何度も恣意的な歌の組み替えを余儀なくされたようで、実践本にない2首(陽明本の#52および最終歌#114)を、実践本のしかるべき場所(#52と#125)に加えたのが、南波浩校注の岩波文庫本です。南波は、実践本に最小限の校訂を施しただけ(つまり、①陽明本が#1から#56まで異同なしで、実践本は#52だけが欠けている ②陽明本には、#109から#114[実践本の#125]まで歌が6首続いているのに対して、実践本は#120から#124までの5首しか連続した歌がない、という①②の理由)で、実践本の126首に陽明本の2首(#52と#114)を加えてなったのが岩波文庫の南波校訂本です。南波の校訂は、ですから全く単純で、恣意的な歌の組み替えはありません。

 ぼくは単に岩波文庫をそのまま読んでみたら、まだほかにも欠けている歌があると、南波のように『紫式部集』を予断をもってみる必要がない、この128首で必要充分な歌集として読めることを見つけただけです。素直に読んだら、こう読めたという報告書です。

 ですから、ぼくの発見(敢えて「発見」と言います)は、南波が『全注釈』を出版した1983年に、難波自身が第一発見者であるべきだったのです。惜しむらくは、南波にぼくのような文学観がなかったのでした。それは、『源氏物語』の589首が構造化されている(式部が歌数を数えている)という目がなかったからでもありました。

 Eさんは、589は偶然だとお考えですが、ぼくは、589首の歌の「頂点」に配置された歌、つまり第295首を源氏の自己認識の表明と考え、<『源氏物語』深層の発掘>では、月の光を光源氏の属性と理解しました。ですから、源氏の歌221首の「頂点」にある歌、第111首――あはと見る淡路の島のあはれさへ残るくまなく澄める夜の月(「明石」巻)――を、式部は『源氏物語』の第221首として置いたのです。このように、源氏の歌221首が『源氏物語』の歌589首に「連動」していることが明らかであるからには、<589>という数値は偶然ではありえないのです。その証し(明石)に、『源氏物語』第296首をご覧下さい。

  めぐり来て手にとるばかりさやけきや淡路の島のあはと見し月(「松風」)

と、源氏の第111首が言及されているのです。ですから、また――

  めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に雲隠れにし夜半の月影(式部集冒頭歌)

が、<『源氏物語』の物語>として、その冒頭を飾る意味をもつのです。式部は自分が注意深く『源氏物語』の中で象徴化した「月」を、読者がそのように読んでくれなかったことに対する絶望感を、この冒頭歌によって表出しています。『源氏物語』では、源氏の第111首を境目に、光源氏はその「さやけ」さをなくしていきます。

 紫君にとっても、「見しやそれともわかぬ間」の源氏の行動が、明石との出逢いによって、大きな打撃となっていますから、この「雲隠れ」の意味は、二重三重に重いので、「ライトモチーフ」としての「月」が、初めに提示されているわけです。

  歌集全体を総体として眺めると、二つの本文系統ではどんな世界が広がっていくのか、御著書とどの程度くい違っていくのかなど、『紫式部集大成』をひらいて、時には影印を眺めながら、その差異を少しは見比べていくという体験を今回はしてみました。
 御著書にありますように、紫式部集について、配列を考え、グループごとに分けて読むというのは(区切り方の問題は別にしまして)、この家集の場合には有効らしいと刺激されました。拾い読みをしていた廣田収『『紫式部集』歌の場と表現』を、丸ごと読むという勉強の機会にもなりました。
(熊倉)ぼくも、廣田収ほか著<『紫式部集』からの挑発――私家集研究の方法を模索して>に大いに期待しましたが、見事に何も挑発されませんでした。 

 狭く範囲を区切って云々する多くの日本人研究者にもどかしい思いをしていらっしゃるのでしょう。
 コラム欄で、ホメロスやトーマスマン作品の「構造化」に触れていたり(25頁)、漱石をひきあいに出したり、全く知らない思考の枠組みが示されていて、他にも知らないことが多く、理解するまではなかなか到りませんが、いろいろお教えいただきました。(『栄花物語』は法華三十講にもとづくから、「三十巻」からなる、また巻十五は道長出家を描く巻で、法華経十五「湧出品」を指示しているなど、やはり平安時代にも意味があったらしいなどと思い出しながら。) 同時に、平安時代の「和算」がどの程度のものであったのか、時代に戻して読もうなどと思いつつ、まったく知らないことに愕然とし、なおざりにしてきた反省もいたしました。
 冒頭部の二首読解には、従来、暦月ではなく節気で把握するなど,苦しい読みが展開されてきたと思います。時間の流れは、1番歌→2番歌であり、別の年であってよいと説明なさっている点、確かにその方が無難なことだと思いました。1番歌は歌集の総序と見なす読みも納得です。父の国司赴任先でながいこと暮らして、帰京して久しぶりに再会したのが1番歌で、2番歌と同一人物なら、再度、赴任先に行くために京を離れるらしい、受領が同じ年に帰任と赴任する例は、その事務手続きからも、別の年にした方がよいのだと思いました。
 『源氏物語』の正続編について、作者に関係づけて説明されていらっしゃったのは、それだけ断絶を強く感じてのことと、そのような感性を私は持ち合わせておらず、全体の文章から受ける若々しい印象とともに驚きました。その理由付けには納得できかねますが、今後の読みに生かせるよう、受け止めていきます。

(熊倉)ありがとうございます。


3 Cさん

 日頃授業で教えていることを、「根底から」は言い過ぎでも、「だいぶ」覆さないといけなくなってしまうな、と思いました。
 家集の百数十首であれば、意図して配列することもできなくはないのは容易に想像できますが、その『紫式部集』の配列が『源氏物語』に繋がっていく、『源氏物語』の数百首の和歌も意図的に配列されているとなると、巻の成立順が物語の進行順と同じではない、といったことが頭に浮かんでしまい、和歌だけ先に完成していたのか、とか、膨大な下書き用紙を調達できたのか、とか、考え始めてしまって、だんだんよく分からなくなてしまいました。

(熊倉)「巻の成立順が物語の進行順と同じではない」という、いわゆる成立論は、ぼくの<『源氏物語』深層の発掘>によって、ほぼ全面的に否定される空論です。『源氏物語』40巻に歌を589首配置するという構想を、式部は書き始める前に決めていたことを、明証できるからです。上記、冒頭でも書きましたように、『古今集』貫之の589番歌が一つの決め手になりますが、「かぎりとて……いかまほしきは命なりけり」という桐壺更衣の冒頭歌なしには、この物語は意味(主題)をもたないからです。『紫式部集』冒頭歌がなければ、この歌集に意味がないのと同断です。

 言ってしまえば、芸術作品は、初めに何を言うかが一切で、これをいい加減に書いた作品に、強い生命力はありません。言い換えれば、これまでの『源氏物語』注釈は、どれも桐壺更衣の歌を重大視してこなかったので、そこに『源氏物語』の主題の一部が隠されているなどとは、だれも考えなかったのです。しかし――

   #1)かぎりとて別るる道の悲しきに いかまほしきは命なりけり

   #552)惜しからぬこの身ながらも かぎりとて薪尽きなんことの悲しさ(紫上「御法」)

「いかまほしきは命」と「惜しからぬこの身」との対比に、『源氏物語』の悲しさのすべてが表現されたのです。「いかまほしきは命」として生きようとした紫上が、その人生の最後に「惜しからぬこの身」と、絶望感をもったまま死に向かうのです。物語中、ただ4回しか使われないキーワード――かぎりとて――を

読みおとしたのでは、この物語に意味をみつけることができません。

 

4 Dさん
 

 本書は、『紫式部集』を分析することによって、紫式部の意図を探ろうとした著書である。作者の意図を解明することは、文学研究の究極の課題と言えよう。しかし、作者の意図に迫るためには、その作品を伝えるテキストが作者の意図を正確に伝えるものかどうかを検証しなくてはならない。また、その作品が書かれた時代に引き戻して読んでいくことも必要である。
 具体的に言うと、著者がこだわっている『紫式部集』巻頭歌のあとの一行分の空白というものが、紫式部自身によって設けられたものであるという論証はどこにもなされていない。著者が引用している南波浩校注『紫式部集』の底本である実践女子大学本は、定家本系の最善本とされているが、室町時代末期の写本であり、紫式部の時代からは大きく隔たっている。一行の空白が、どの段階で設けられたものなのかを明らかにすることは難しい。したがって、その空白に紫式部の意図を読み取ることはできないと思われる。
 また、『紫式部集』巻頭歌の「月影」について、「童友だちの「こゝろ」の透明・清純感」を読み取っているが、「月影」に心の透明感・清純感を表した同時代の和歌の用例があるのかどうかの検証が必要であろうし、『源氏物語』において「月影」がどのような意味を持たされているかを検証することも必要であろう。
 全体をとおして、現代の感覚で分析を行っているような印象を受けた。

  (熊倉)

『源氏物語』の写本間の異同については、名詞/動詞や助詞/助動詞のような単語のレベルについてがほとんどで、一文が丸で違うというようなのは、むしろ例外的なものです。ですから、ほぼ作者が書いた文章が千年後の今日まで伝えられています。その上、589首の和歌については、ほとんど異同がありません。そのことは、最近完成間近になった梅野きみ子ほか編『源氏物語注釈』(風間書房)でも明かです。ですから、少なくとも作者の意図は、マクロレベルでは把握可能という前提でテクストを読めるというのがぼくの判断です。どの写本でも、物語の歌がほぼ正確に今日まで伝えられていることは、注意深く写されたテクストに、作者の意図を裏切る異同がそこら中に見つかるということではありません。 

 『紫式部集』ついても、51番歌までは、実践女子大本系も陽明文庫本系も異同はなく、この一事をみれば、紫式部の意図は把握可能なテクストと判断します。その上、ぼくの見つけた31首ずつに括る配列方法は、『源氏物語』40巻の配置をほぼ踏襲している実践女子大本のテクストによって、ぼくの31首の仮説(仮設)が、作者の意図の把握を可能にしたという主張です。

 口酸っぱく繰り返しますが、「かたちsignifierと意味signified」の関係は、自然界の原理です。「モノ」はすべて「かたち」をもち、それには固有の「意味」があります。自然科学も社会科学も原理は全く同じですから、今われわれがもっている『源氏物語』というテクストは、意図の把握が可能なテクストとして、今後みつかるかもしれない式部の原本を待つまでもない、信憑性のあるものです。歴代の男性社会が弄りまくったものだから、信用できないとする一部のフェミニストたちが、見つけなかった主題を、フェにニストではないぼくが見つけた主題が、<源氏の不実に対する紫上の絶望と後世に託した夢>です。

 『紫式部集』の主題も、『源氏物語』の主題をふまえれば、拙著p.16に書いたように、<『源氏物語』の物語>という焦点的観念F(ocus)であり、『源氏物語』が誤読された絶望感と後世の読者に託された正確な読みへの微かな希望f(eeling)です。この(F+f)論は、夏目漱石の『文学論』を援用したものですが、文学作品がもたなければならない二つの「要素」として、ぼくの分析でもその根幹をなす文学の基本的な理念です。(拙著《漱石のどんでん返し――『坑夫』から『明暗』への友愛世界<220=284> 》を参照してください。)

 『紫式部集』巻頭歌のあとに置かれた一行空白の意味は、「雲隠」巻以降の物語の意味の断絶を、物理的なテクストによる「空白(断絶)」として象徴的に置かれたものという解釈です。どこにも説明がないと仰いますが、拙著p.1316202227434647、更には133163などなど、機会がある毎に「空白」行(テクスト)の意味を説明したつもりです。

  「雲隠れにし」月には、四人の人――まず童友だち、その形代としての小少将、さらには式部が待ち望んだ男と光源氏――のほかに、『源氏物語』の主題が重ねられています。この重層性が、『源氏物語』と『紫式部集』を「芸術作品」として生き長らえさせた理由です。無論、式部は一行空白の意味など、テクストの中で説明するはずがありません。しかし、「一行空白」を置いたあとに、「その人、とほきところへいくなりけり」という2番歌詞書との間の「断絶」を見逃してはなりません。これは1番歌の左注ではありません。なぜ空白を置くのかを読者に考えて貰おうとして、「意図」的に空けたのだとしか考えられないのです。『源氏物語』で言えば、「桐壺」巻と「帚木」巻の間に置かれた空白の時間のようにです。

 また、『紫式部集』巻頭歌の「月影」について、「童友だちの「こゝろ」の透明・清純感」を読み取っているが、「月影」に心の透明感・清純感を表した同時代の和歌の用例があるのかどうかの検証が必要であろうし、『源氏物語』において「月影」がどのような意味を持たされているかを検証することも必要であろう。

さきに、源氏の111番歌が『源氏物語』の221番目に置かれ、そこに源氏が月の光を自身の属性であることを認識した歌であると説明しました。この「明石」(証し)巻の重要性については、『源氏物語』の歌の「分水嶺(295首目)」に置かれた桂川の別荘での認識の歌――

久かたの光に近き名のみしてあさゆふ霧も晴れぬ山里(「松風」)

によって、この時点で源氏が「名のみ」の存在に変貌したことを自身で認めるのです。これは、ぼくの恣意的な数合わせでないことが、次の「めぐり来て」の歌に明証されています。

めぐり来て手にとるばかりさやけきや淡路の島のあはと見し月(#296、「松風」 

 さきに述べたように、この「めぐり来て」は、『紫式部集』の冒頭歌の「めぐりあひて」にエコーしています。ですから、

あはと見る淡路の島のあはれさへ残るくまなく澄める夜の月(#221、「明石」 

の「月」に、ぼくは「透明感」を察知するのです。
 全体をとおして、現代の感覚で分析を行っているような印象を受けた 

――と仰いますが、ぼくは『源氏物語』・『紫式部集』のテクストに即して分析しているつもりで す。

 

 

6 Fさん

 助動詞ケリが、鈴木泰氏の用語を借りていうなら、「非アクチュアルな意味を表し、過去の特定の時点と結びつけられないこと、伝聞や気づきによって得られた過去の出来事を表すことがある一方で、述語が主語の性情を特徴づけるものであることを示して脱テンス的意味になり、説明的機能を表」し、「場面の転換点を示したり、論理的関係で結ばれた出来事どうしや対比的な関係にある出来事どうしのまとまりを表したりなどして、物語を形作る事象がどのように有機的な結び付きを作っているかを示」すこと、(『改訂版古代日本語動詞のテンス・アスペクトー源氏物語の分析』ひつじ書房1999351352)、キが「過ぎ去った過去を表す」のに対し、ケリが「過去の出来事や普遍的な真理についての認識が成立したことや、そうした認識を所有していることを表す」(同書352頁)こと、などを表す、ということを述べておられるのかな、と読みました。そうであれば、ケリの捉え方としては穏当なものであり、異論はありません 

(熊倉)援用されている鈴木論は、ぼくの助動詞の解釈と相容れないところがあり、ぼくの方に「異論があります」。ぼくは日本語に「主語/述語」を認めませんし、西欧語のテンスもないと考えますので、助動詞「けり」に西欧語の文法用語は使いたくありませんし、使うのを極めて危険と考えています。お使いになっている「非アクチュアル」「伝聞」「脱テンス的」などが、どういう意味かわかりませんので、この部分は、素通りさせていただきます。

ここで援用されている塚原論も、『源氏物語』54帖全体を総括しての議論のようですが、ぼくは宇治十帖の作者を紫式部と読んではいませんので、ここに『源氏物語』の冒頭文をもちだされても反応のしようがありません 

勿論、ぼくの方も「宿木」の一文を不用意にもちだした責任があります。唐突にこの一文だけで、式部の文体ではないことを証明しようとしたのではありません。直感的に、「おや」と思ったまでです。ただし、単に「けり」を重ねることを問題にしたかったのではなく、同じ動作主(匂宮)に四つも「けり」を重ねる必要があるのかを疑問視したのです。ですから、例えば『源氏物語』の冒頭文に使われた二つのけりは、「動作主」を異にする(初めのは「女御更衣あまた」で、二番目のは「いとやむごとなき……すぐれて時めきたまふ」)というさらなる限定的絞り込みであることから、こういう「けり」ならいくら重ねても構わないと考えています。

ぼくの理解は、単純に、「けり」は、「き」が意味する動作主が、話し手の発話時点で「現前」する(話し手のイマという時間意識に動作主が存在する、それ故「き+あり」)という意味づけで、すべての「けり」が解釈可能と考えます。(拙著『日本語の深層――<話者のイマ・ココ>を生きることば』(筑摩選書00222011))「けり」は必然的に物語の「イマ」を更新しますが、同じ動作主による「けり」を重ねなくても、「き」が重なれば、その動作主の動作は当然「き」が意味する動作が順次過去の動作としてあったことが意味づけられるので、あえて「けり」を重ねる理由が、動作主の現前を強調する意味ならば、判らなくもありません。ただ、この場面で匂宮の「現前」を、そんなに強調する必要があるのでしょうか。

この場合、語り手がなぜ「なりけり」と、最後に事態の認識を表明する文に、動作主の「現前」を四回もくりかえす必要があるのかと疑ったのです。ぼくも「き・けり」が併用される文は、どこにもあることは承知しています。ですから、「宿木」の例文の場合、どうしても「けり」を重ねる必要があるのだと、ぼくを説得してほしかったのです。ほかの研究者の議論を列挙されるだけでは説得力がありません。Fさんご自身の「けり」論をお聞かせ下さいませんか。ぼくのホームページwww.mochiifu.comでは、「けり」の誤読について、ぼくなりの意見を述べています。それに反論していただければ幸いです。

 しかし、用例の扱い方とその方法にもどづく論の進め方には抵抗を感じます。
  「けり」が重ねて使われていますが、式部だったらおそらく「き」を併用して、これほどまでに「けり」を使わずに書ける文です。(183p
とありますが、塚原鉄雄(1987)が述べるように、『源氏物語』も『竹取物語』のようなテキスト構造をもっており、宇治十帖以外でも、
  いづれの御時にか、女御更衣あまたさぶらひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。(桐壺)
のように、時を表す表現ではじまり、「-ケル、-ケリ」のように助動詞ケリを用いて話をすすめ、
  落としおき給へり習ひにしとぞ、本に侍める(夢浮橋)
と、物語世界から作者の世界へと統括して物語を終えているとされます。

 

ケリを重ねて用いることは『源氏物語』では珍しいことではなく、むしろ語りの文体としては頻繁に用いられているものと捉えられます。これは、無自覚にではなく、当然旧草子を意識して用いられた語りの「型」であると考えられます。
 また、宿木でも「き」を使用した例はあり(鈴木2012:219)、宿木のキ・ケリの使用および、源氏物語のキ・ケリの使用から宇治十帖の作者が式部ではないというには、根拠が薄いように思います。
 次は、タリキの例です。
  紙燭さして歌ども奉る。上の町も、上臈とて、御口つきどもは、ことなること見えざめれど、しるしばかりとて、一つ二つぞ問ひ聞きたりし。これは、大将の君の、下りて御かざし折りてまゐりたまへりけるとか。
    すべらぎのかざしに折ると藤の花およばぬ枝に袖かけてけり(源氏物語・宿木)
なぜそこにタリキでなくタリケリが用いられているのか、ということを考え、タリキだったらどうなのか、と仮定することは、ケリとキの機能についてより深く考えるためのよい仮設だと思います。
 しかし、それを逆にして、(式部ならば)ここはタリケリでなくタリキのはずだ、というのは、たとえレトリックだとしても、実証的な方法になじんでいる身には違和感があります。
  内裏におはししを、御文きこえたまへりし御返し、いとあはれに思されしかばのような例は、むしろ違和感が強いのですが、加藤浩司(1998)は、たとえば『三宝絵詞』で、地の文の文末にケリではなく、キが多用される傾向について、
  また神通の力い坐して妙に衆生の心を随へ給ふ。火を変じて池となししかば勝蜜が門空しく過ぎき。水を踏むこと土の如くせしかば伽葉が船いたづらに去りきにき(仏趣、七-八頁)
のような例について、「仏教教義上重要な出来事」を、「実際に存在し、疑う余地もなく生起した事柄」として描くために「キ」をもちいたもの、としています。
 もちろん、物語と説話(とくに仏教説話)の文体を単純に同じと考えるわけにはいきませんが、そのくらい、文末をキでたたみかける文体はイレギュラーなものであり、そちらのほうが説明が必要なのだということです。 以上。
 引用文献
 加藤浩司『キ・ケリの研究』笠間書院 1998.10
 鈴木泰『語形対照 古典日本語の時間表現』笠間書院 2012.7
 塚原鉄雄『王朝初期の散文構成』笠間書院  1987.6

 

 

  Gさん 

 式部集の128首の和歌のうち、自身の歌が89首。うち、素数番の和歌が31首。源氏物語の和歌が全部で589首。ふしぎを発見できるご著書です。
 紫式部は、現代のようなパソコンを使って原稿を書いたのかしら、文系でなく理系頭なのかしら、素数フェチだったのかしら、などと想像しながら読むと楽しいです。
 集からうかがえる夫や友人との体験が、物語に影響を与えたということは、しごく当然のことと思います。しかし、式部が物語を完成したあとに「源氏物語の物語」として集を編み、そこに物語の仕組みをプレゼンしている(p31)というような、大胆なお考えにとても驚きました。
 あとがきに「作品の主題を明確にするためには、数的な論理性が文学の必須な原理であることを、『源氏物語』と『紫式部集』が明らかにしています(p191)」とあります。作者がどのような論理性をもって作品を書いているのか、解明することは難しいと思います。しかし、作品をテクストとして分析する際に、数的な論理性をもって読み直してみるということは、意義のあることだと考えます。そうして、ご著書にあるような法則性が浮かび上がってくるのですから。自然というものは、さまざまな偶然から成り立っていると思います。目に見えない不思議が、わたしたちの周りにあることを否定できないと思います。それを「偶然」とせず「必然」と認定するのは大変難しく、まさしく「ちから相撲」というタイトルが表すとおりです。
 しかしながら、文学と数的な論理の関係は、陰陽のごとく、相互に関係するものなのかもしれません。あたかも、光る君と、ライトモチーフの「月」のように。平安時代の人々が天文学に基づく暦に従って日々を過していたことは自明のことです。
 ちなみに、熊倉先生のご本にもなにか仕掛けがあるかと、5+7+7=19頁や19首目、31頁や31首目の歌、素数の頁などに注目してみましたが、まだ法則性や意図を発見するにいたっておりません。
 今年執筆させていただきました「文学・語学」の時評のタイトルを、「挑発する和歌」といたしました。文学研究には「挑発」が必要なのだと、再認識いたしました。ありがとうございました。 (熊倉)すべてをポジティブに受け止めてくださったことに感謝すると同時に、式部のように「憂き世」と思わずに生きられる勇気を与えてくださって、ありがとうございました。

 

  

8 Hさん 

私ども研究会会員全員に一冊一冊サインを入れた御著書をありがとうございました。
出版社を起業しての刊行という実行力、研究範囲の広さ、造詣の深さなどE先生より色々と伺っております。日本人的な曖昧さ、薄っぺらな謝辞を嫌う欧米的性格を持ち度量の深い方と先生は仰っておられました。若輩で浅学な私などが下記のようなことをぶつけても、お許しいただけるということなので、失礼とは思いながらも他の方々とできるだけ重複しない点で私なりの率直な感想、意見を述べさせていただきます。
 装丁について
正直なところ大変苦労致しました。
「昔の小説だったかに『パイプの煙を燻らしながら、一ページずつ切り裂いた』というような記述もある。熊倉先生らしい装丁だ」
と伺いましたが、不器用でせっかちな性格なもので、せっかくのサイン入りの御本が、きれいに切り開けられずボロボロになるにつれ読む気が失せてしまい、申し訳ないと思いながらもなかなか手が出ず、しばらく積んでおく状態になりました。
 数の概念について
E
先生より、万葉の時代から九九算などを使っていた記述があることを教えていただいていましたので、私もあの時代の人々が、今でいうところの「素数」に気づいていた可能性は多分にあろうかと思います。
 「紫式部集」という家集の特性について
御著書を読むにあたり、新潮日本古典集成の『紫式部日記 紫式部集』にまず目を通しました。日記からは名指しで色々な人を批判し、また源氏物語の評価を気にしている作者の性格がよく分かります。しかし紫式部集には、自分の評価を知らしめ後の世にも遺せる献上歌、歌合の折の歌などが入っていません。E先生のもとで長年いくつかの私家集を研究してきた私も、他の集とは何か違うような気がしました。小説『源氏物語』、日記、家集、どれも世に流布されていくことを意識していた作者が、家集をどう位置づけようとして編んだのか確かに気になります。
最初の歌と最後の2首の関連性、また最初の歌の「雲隠れにし」に『源氏物語』の「雲隠れの巻」そして自分の死も含めて源氏物語に桐壺更衣や紫上の「死」を想起させようとしていることも同感です。とすると、そのあとに1行の空白を置いたのは、単なるデザインではなく、もっと深い意味があるように私は思います。
そんなことを考えながら御著書を読ませていただき、先生の視点に引き込まれそうになりながらも、何度も立ち止まり、読んだところを再度見直し、またその前後の歌に目を通すという、非常にしんどい「読み」となりました。
その原因は先生の「数」への拘りにありました。
・素数に物語として大事な意味をもつ歌をおく
64番歌が128首の折り返し点
・初めから作品全体のかたちを40589首と決めていた、……家集の128首もこれしかない歌数として選ばれたもの
・最初の素数番の歌を並べ、それぞれの1句の第一音節を並べると〈なついにし〉となって
 ・「五十日の夜」の「五」が、ここで歌番の89と意図的に結ばれて『源氏物語』の589首を象徴する
御著書の後半に入り、ふと先生は何を底本にして分析されているのかと見直してみました。凡例で引用するテキストを、南波浩校注 岩波文庫(1978)と書いておいでです。しかしまた次のようにもお書きになっています。

 

「写本間のテクストの異同については、想定する作者の意図に則って最適と思われるものを採りました」
上記の断りの意味は何でしょうか?

 (熊倉)すみません、ぼくの説明不足です。南波校注の文庫本は、基本的には実践女子大本ですが、陽明文庫本にあるテクストを、「古本」として(あるいは、であるが故に)よりよいものと南波が判断した例があります。例えば、実践本#37番歌の「散る桜にも」とある第4句を、「散る桜には」(陽明本)を好しとしています。この場合、ぼくは「は」ではなく「も」を採ったのですが、「も」の音の重なりを佳しとしたいからでした。以下の2首を、式部-宣孝のやりとりと見れば、宣孝が自らの突然死を予言・意味づけたと見えたときに、「も」の方が式部にとってずっと重みが増す佳い歌になるからです。歌集での式部の「思いくま」です。

  (#36)をりて見ば近まさりせよ桃の花思ひぐまなき桜をしまじ

  (#37)ももといふ名もあるものを時のまに散る桜にも(は)思ひおとさじ

(熊倉)[このあとは、字の色を変えずに、太字でみなさんの文章をぼくのと書き分けます。]

残念ながら、岩波文庫が手に入らなかったので、南波先生にその責任があるのかもしれませんが、もしかして実践女子大本に欠ける歌を陽明本から補って、熊倉先生が番号付けをなさった? [(熊倉) ということはありません。すべて南波校注のオリジナル番号です。] 実践女子大本は「をりからを」の歌が欠けているので、以後先生の御著書の番号と一つずつずれますよね。[はい、その通りです。] 先に例として挙げた先生のご意見は、一つ歌数が狂えばもはや意味を持ちません。まさに砂上に構築している城に等しいのです。[その通りなのですが、南波が陽明文庫本から補入した2首で全体を128首とすると、ぼくの仮説(31首ずつに括られた)である『源氏物語』と全く同じ構造が、『紫式部集』にもあるということになるのです。南波は、その箇所に陽明本の合理性を認めて#52を実践本に挿入したのですが、無論南波は「31首に括る」という予断をもっていませんから、そこを特定しての挿入は、単に陽明本がそうなっているからです。ぼくの「括り」も我田引水ではなく、南波校注の岩波文庫本が、そうなっているのを機械的に5-7-5-7-7に区切っていったら、きれいに並んだというだけです。ですから、ぼくの今回の発見は、本来南波先生が見つけられてもいいものでした。南波先生のお陰なので、クレジットを差しあげたい思いで、拙論p.28の最初の数行を書きました。] 言うまでもなく実践女子大本にしても、陽明文庫本にしても、紫式部が遺した原本ではないわけで、歌の番号付けに基づく分析は、危険きわまりない行為と言わざるを得ません。[「危険きわまりない行為」だったのでしょうが、ぼくは無心でしたから、今となっては、式部本人が秘かに番号付けしたのがこの128首だと、確信をもっています。南波のように、「ほかにも脱落した歌が空白部分を埋める歌として、式部の原本にあったはずだ」、という「予断」をもたなければいいのです。そこが南波とぼくの違いです。ぼくには、『紫式部集』の分析以前に、『源氏物語』の歌の配列方法を見出していたというアドヴァンテージがありました。]
先生の論に、ご自身の想定なさっている分析に、数や紫式部集、日記にある言葉を引き寄せようとなさっておられる節がところどころに見受けられます。例えば、3番や64-65番、123番を小少将とする理由はどこにあるのでしょうか?また下記の「月見るあした」が八月となぜ特定できるのでしょうか? [確かにぼくは「引き寄せよう」としています。その根拠は、よい芸術作品がもつマクロレベルでの「かたちsignifier」を、『紫式部集』の随所に認めるからです。ですから――                                

① 3番歌の存在理由は、124首の終わりから3番目の歌に「いどむ人」、つまり『源氏物語』正編の作者に挑んだ小少将がいるからです。この歌集は、3番歌を一首欠いただけで、意味のない作品となってしまうくらい、3番歌の意味が全てなのです。この#3/#122のパラレルな構造なくしては、「芸術作品」としての画竜点睛を欠くと極論できるほどです。拙著p.8の囲み記事は、ぼくの研究者としての生命を懸けた物言いです。この対比を見つけたとき、ぼくは「ユーレカ」を叫んだのですから、ここに式部の芸術の一切があると言っても言い過ぎではないと思って書きました。ページを切らずに読めるp.8に、この囲み記事を置くことを思いついたとき、フランス装幀の本を造りたくもなったのです。この本で、ぼくはこの「憂き世」から脱出できる、との思いでした。夏目漱石の『明暗』のように、これでぼくも芸術の女神に殉死できるので、「ハレルヤ」です。繰り返しますが、2番に3番のうたを繋げることは、失った童友だちとその形代としての小少将を繋げる、詩的な作業です。ベートーヴェンの交響曲「運命」の最初の四つの音は、『紫式部集』の最初の5首(1-2-3-4/5)とパラレルな造りです。マクロ的に全体を統一する手段としての作品の出だしの造り方は、ぼくの知らない中国の古典にもたくさんあるのではないでしょうか。ぼくに「箏の琴」の奏法が判っていたら、もっとうまい説明ができるかもしれませんが、式部は「箏の琴」という一句で、中国古典の芸術作法に言及したのです。これを学びたいとする「人」はいい加減な動機ではないはず、と式部の歌(#3)は念を押したのですが、結果的に見事に裏切られました。『源氏物語』続編の造り(構造)は、式部の芸術にほど遠かったからです。ですから、この#3歌にも、「雲隠れ」は象徴されています。                                  ② 123番歌は上記①と同じ理由で、2番歌と対比されるからです。本当ならここに早世した童友だちの歌がほしいところですが、その形代としての小少将の最後の肉声をここに響かせようとした、と考えてはいけませんか。「人」とあって「小少将」と明示しないところは、式部が敢えて続編の作者の実名を見え見えにしない方針を貫こうとしているからです。この歌の「初雪」のピュアーな「こゝろ」が、「消えぬるか」(つまり「雲隠れにし」にエコーして)二人の佳人薄命を式部が記録に留めたかったのだと、考えてはいけませんか。                                 

③拙著p.89にも書きましたが(因みに、このp.89は『紫式部集』の式部の歌数89に肖っています、念のため)、「起承転結」を構造化する31首ずつの括りの「転」部の第2首は、『源氏物語』40巻が世に知られて、式部の「根(音)」が露わになってしまった時点です(「なきよわる」#2がエコーしています、念のため)。この事態に助け舟を出してくれた人、ここも本来は童友だちの領分でしょうが、宮仕え後に親友となった小少将と考えてはいけませんか。「いはぬに朽ちてやみぬべければ」は、見事に式部の思いを代弁してくれているからです。そして、自身の書いた続編は、「いはぬに朽ちてやみぬ」歴史が千年つづいたのですから。                      

④「月見るあした」が八月なのは、中秋の名月と直感したからですが、単純すぎますか。理屈をつければ、#111-2が七夕の歌で#115が「九月九日」と明示されているのですから、その間に挟まれた時間として、ほかの月を考える必要がないのではありませんか。

 

 ・114に「月見る翌朝(つまり八月十六日)と詞書があり、次の115に「九月九日」とあって、それとなく〈8〉〈9〉を示唆しているように造ったりもしています。
 ・121の相撲の歌は七月と思われるので、114を八月とすると順番も狂います。 

 [#118からの7首は、拙著p.125にサブタイトルを付けたように、「結」部「急」の締めの部分です。ここでの歌は時系列に並べてはいません。相撲の歌がなぜこんな所に置かれたのか、をぼくも最初は疑いましたが、3番歌とのパラレルな構造に、式部の芸術を感得したのです。この意味的な「飛躍」こそ、『紫式部集』が紛れもない芸術作品である証しだというのが、ぼくの『紫式部集』論のハイライトです。]

 

 私も「数」をもって客観的、論理的に分析研究したことがあります。全く文学とは関係ない母親の育児について、日本と韓国の母親にアンケート調査をし、2009年当時まだ主流だったSPSSという分析ソフトを使って数値を入れ比較研究しました。統計学を学部生に交じって勉強し、SPSSに向かい何十時間もかけ分析しました。パソコンに向かいながら、いつも頭の片隅あったのは、自分の想定する分析結果を導きだそうとしてはいないか?ということでした。
 パソコンでの分析でも、データの扱いや検定方法次第で自分の論に近づけることが可能なのです。「数」をもってしても客観的な分析がいかに難しいかを学びました。まして、定家自筆の断簡がわずかにあるだけで、歌集として整ったものは室町時代以降のものしかないという千年以上前の紫式部集。歌番号で論を構築するにも基盤となるところが明確でない以上、「数」で考えるのは無謀ではないでしょうか。[たとえ無謀でも、結果的に、ぼくは『紫式部集』に式部の「ちから相撲」を見出したのです。ぼくは『源氏物語』の589首に何の意図的な操作も加えていませんし、南波の岩波本に「遺伝子組み換え作業」をしたわけでもありません。日本文学史上、式部ほど一見「無謀」な文学を造った人はいません。それは『源氏物語』を全54巻とみてのことです。明らかに、その全体は支離滅裂だからです。その結果、人々を千年も誤読させ続けたのですから。しかし、式部は自分の芸術を守るために、たとえ親友といえども、その秘密を明らかにすることはありませんでした。あえて、「無謀」にも、自分の作った正編と、小少将の続編を空白の「雲隠」巻で繋いでおいたのです。いつかは誰かが、二つの物語の「質的な違い」を読み取ってくれるという芸術家としての信念があるからです。『源氏物語』795首のうち、後の206首を除外すれば、あるいは「匂兵部卿」巻以降を切り離せば、そこにはしっかりと計算された、理路整然とした「構造signifier」があることに、式部は自信があるのです。今から「31年」後、2048年ころには、『源氏物語』を含めて世界中の文学データがAIで解析される時代がきていることと思われます。そのとき、ぼくの見つけた『源氏物語』と『紫式部集』の「かたちsignifier」は、AIの分析結果に当たらずといえども遠からずな相似形として重なるはずです。]

 御著書の誤読、理解不足な点があればご容赦ください。[細かいご指摘に感謝いたします。これからも、『紫式部集』細部の芸術性について、さらにお話し合いができればと思います。今回のご批判文から、BさんGさんともども、周波数が合うご批判で、落ち込んでいた気分がたいへんよくなり、ありがとうございました。]

 


9 Iさん 

 私は大学で文学史を講義していますが、一般的に平安文学史においては物語(散文)史が中心におかれて、和歌と物語の繋がり、「かな」(和歌を記録するための文字と言ってもよい)の誕生及び和歌と歌集(勅撰・私家集・私撰集)の発展が物語等の散文世界を導いた、という視点が希薄なのが問題だと感じています。「かな」が生まれて広まったただけで、物語が、それも女流文学が突然変異のごとく花開いたのではないはずですから。
 また、伊勢、大和、竹取、うつほ、落窪、源氏と読み進め(「うつほ」については読破と言えないが)、玉上琢彌先生の「源氏物語音読論」(岩波現代文庫)を読むと、物語とその発展、享受に関して、玉上論に改めて敬服せざるを得ません。もちろん玉上論が全て正しいということも無いでしょうが。このことと、私家集を読解することを中心に研究している立場とから見ると、熊倉氏の論は、大変面白く読める(所々に「紫式部集」の、魅力的な、しかし未検証の読み方が提示される)一方、我々の会のように私家集を注釈する者が繰り返す作業(用例検索等を中心とした様々な検証過程)を経ない論が断定的に繰り広げられることには、反発というか、呑み込めない部分が多すぎると言えます。

 [「呑み込めない部分」が具体的にどこなのか、ご指摘いただかないと反論できませんので、何も書けません。ただ、文学史をなさっていらっしゃるなら、2015年の新見として、拙著<『源氏物語』深層の発掘>(笠間書院)に興味をもっていただけなかったことが残念です。どうやら、全く価値のない『源氏物語』論として退けられたのだと思います。ぼくの論点は、『紫式部集』論の冒頭、「はじめに」に、<……五十四巻のテクスト自体を証拠として、続編の作者が紫式部ではありえないことを証明しました。……>と、少なくとも『源氏物語』に新しい見方を提出したのですから、それが「証明になっていない」理由を、一言でも述べていただくことが、ぼくにとってありがたいことなのでした。]

 

おわりに、ぼくがこの研究会のみなさんのご批判を仰いだのは、お仲間の一人(ここではZさんと呼ばせていただきます)が、上記拙著<深層の発掘>の編集を担当してくださった方なので、Zさんからぼくの『源氏物語』論の内容は、出版された当時、ある程度みなさんにも知っていただけたと思っておりました。しかしこの度、みなさんのご批判の中に、Zさんの文章がなかったので、いちばん期待していた、拙著の編集を熱心にしてくださった、ぼくとしては身近に感じた方だっただけに、がっかりでした。そもそもEさんが、拙稿を笠間書院に紹介・推薦もしてくださっただけに、Zさんの沈黙は、いまぼくが落ち込んでいる理由です。