助動詞「あり」の誤読

助動詞「あり」(現行の学校文法では、<完了の「り」>と誤認されている)は、早急の対策が必須の、文科省が一日も早く認識すべき重大事項の一つです。例えば『古今集』の332番歌――

 

    大和国にまかれりける時に、雪の降りけるを見てよめる 坂上是則

      あさぼらけ有明けの月と見るまでに吉野の里に降れる白雪

    大和国に行っていた時に雪の降ったのを見て詠んだ歌

      夜のしらじらと明けるころ、有明の月がほんのりと照っているのと見まがい

      そうに、吉野の里に音もなく降っている雪よ。(新全集本、p.144)

 

「けり」の項目で、331番歌について、さんざんにののしっているぼくだけれど、その次の歌にも同じくらいに大きな問題があるのです。まずは「けり」の問題再出――

 1.「雪の降りケルを見てよめル」とあるので、「降りキ」の時間と「見てよミ」の

時間は同時ではありえない。だから、この詠者は、実際に雪が降りつつあるのを見て歌を詠んではいないのだ。

 2.「降れる白雪」を「降っている雪」と口訳しているのは、「降りつつある」のか「降り積もっている」のか、これだけでは判断できないが、「音もなく」とあるからには「降りつつある」と、訳者は認識していることが明かだ。

 3.ならば、上の1)2)の意味論理から、その口訳は、「降ったのを見て詠んだ」ではなく、「降りつつあったのを見て詠んデイル」としなければいけないだろう。

 4.しかし、「雪がふりつつある」という現象を、「有明の月がほんのりと照っている」と「見まがいそう」になる人が、この世にいるだろうか。だいたい、雪がふっているときに、月が照っているという状況は、「ほんのりと」という形容が当てはまるような現象ではありえない。

 5.どうしてこういう誤読が生じるのか。それは助動詞「(あ)り」が読めていないからだ。

 6.これは331番歌と同様に、降雪ではなく積雪を詠ったものだ。詞書の「まかれり」が読めているようでありながら、「降れる」が読めないのはなぜか。助動詞「(あ)り」の本質が判っていないからだ。

 7. makareri は makari+ari 、fureri は furi+ari だから、「(あ)り」は「存在(存続)」を意味し「完了」を意味しない。現代語の「テいる」には、動作・作用が「進行中」と「結果の存続」を言い分ける機能があるのに、その区別すら判っていないような口語訳なのだから呆れる。

 

「吉野の里に降れる白雪」は、だから、「吉野の里に積もっている雪」を詠っていると読まなければ意味がない。詠者は月をみているのではない。あくまでも地表の雪、すなわち「吉野の里」を描写しているのだから、降りつつある雪の描写では絶対にない。口訳では、空を見上げているような視線だが、この歌は白い地表が、有明けの月の光の反射のように見えると詠っているのだ。「ほんのりと照っている」のは、月をみている動作だが、この詠者が見ているのは「月に<照らされている>ように見える、雪が積もっている地表の白さ」 なのだから、詠い手が視線を送っている対象が全く違う。あきれた解釈ということになる。

 

   怒り狂っているうちに、デスマス体を忘れて、ダ体になっている。しかし、このままにしておこう。新全集の『古今集』ばかり、目の敵にしているようなので、矛先を変えよう。元々個人攻撃が目的ではないから、ぼくのキャリア上の恩人(この注釈書の共著者)松田成穂先生に恨みがありようがない。

 小町谷照彦『拾遺和歌集』の小町谷氏とは、面識も恨みも全くないことをまず明記した上で、学問のために文句を言う。

 

        題知らず        柿本人麻呂    

   12 梅花それとも見えず久方の天ぎる雪のなべて降れれば

     梅の花は、それとも見分けが付かない。空をかき曇らせて、雪が辺り一面に

     降っているので (新大系『拾遺和歌集』p.7)

 

一見、この口訳に問題がなさそうに見えるのだが、古今集331/332番歌同様の問題ありとみる。それは、「空をかき曇らせて、雪が辺り一面に降っている」という解釈が、あきらかに、雪がふりつつある情景の意味しかないからだ。なぜか。「曇らせて」とテ止めだから、この現象が「降っている」と同時に連携した動作・作用と理解するしかないからだ。

 

――空をかき曇らせて、雪が辺り一面に降っている――この文言をこの文言として読んでください。「かき曇らせて」いるイマ、「辺り一面に降りつつある」という意味しかない文だけれど、この歌は、「雪が降リツツアる」情景ではゼッタイにありえません!

 

なぜなら、原文は「降れレば」となっているからです。くどいようですが、furerebaは、furi+are+baですから、降った結果の「存続(現前)」の意味しかないのです。日本の和歌史に「降レル白雪」のような文言は無数にありますが、ヤマト言葉が判っていない詠者ででもなければ、この文言で降りつつある雪を描くことは、昔も今もできません。直感的に、「降れる雪」とあれば、「積もった雪」しかイメージしてはいけないのに、和歌解釈の専門家が、どうしてこんな単純ミスを冒すのでしょう。

 

いや、自分はこの歌を「梅の花ガ咲いている歌」として解釈していると抗弁するなら、曖昧な「降っているので」ではなく、ここは「積もっているので」と訳さなければいけません。なぜそう訳さなかったのか。それは(おそらく)「天ぎる雪」という万葉調の表現を誤訳しているからです。枕詞のような表現を現実の雪の動作としてしまったので、この雪はこの歌を詠っている時点での情景(降りつつある)に変質して(意味を変えて)しまったのです。

 

因みに『古今集』にも入っている(ということは、拾遺集の編者藤原公任が『古今集』「冬」巻にあるの (#344)をうっかりして、「春」巻に再録してしまった)のが、口語訳でどうなっているかというと――

 

  これではどれが梅の花だとも区別がつかない。空を霧のようにかき曇らせる雪が一面

  に降っているので(新全集『古今集』p.144)

 

となっていて、ここでも「積もっているので」とは訳されていないのです。梅の花が「散りつつある」という誤読をさけるためには必要な文言です。

 

      延喜御時、宣旨にて奉れる歌の中に  紀貫之

  13 梅が枝に降りかかりてぞ白雪の花のたよりに折らるべらなる

    梅の枝に降りかかっているので、この白雪は、花を折るついでに、一緒に折りと

    られてしまいそうだ。 (新大系『拾遺集』p.7)

 

助動詞「けり」「あり」とは関係ないのですが、12番歌に続いてこの13番歌も誤読しているので、ついでに文句を言います。編者公任は、人麻呂と貫之を並べたいがために、この歌を13番目に置くのですが、12-13は『古今集』のような季節の移り変わりを正確な季節の推移に呼応させて配置しようとする感性に欠けています。

 

この歌では梅の枝に花は咲いていないのに、あたかも咲いているように、訳者は解釈していて滑稽です。「一緒に折りとられてしまう」雪など、イメージとしてありませんし、歌にもなりません。折る間もなく雪は枝から落ちてしまうだろうからです。「花を折るついでに」とやってしまったのが運のつきです。この歌は、枝に花が咲いたと見まがうように白雪が積もったので、梅の花の便りにと、花のない枝を折ってしまいそうだ、という歌意です。梅の花が咲いているところに雪が降り積もったという歌なら、「花のたより」にしようとしても、相手に届く前に雪は跡形もなく融けてしまうはずで、それならば、「ぞ」という強調は、全く何の意味もないではありませんか。「イマ」の事象を把握する感性の、何というなさでしょう。これでは文学はできません!

 

     雪の木に降りかかれりけるをよめる  紀貫之

   冬こもり思ひかけぬを木の間より花と見るまで雪ぞふりける(331『古今集』)

   (……花ノチルト見エルホドニサ雪ガフルワイ[宣長])

 

上の『拾遺集』の歌と、全くよく似た趣旨の歌ではありませんか!!どちらの歌も梅の咲く春を待ち望む歌です。小町谷のように解釈したのでは、貫之が、宣長の『古今集遠鏡』訳と同じように悲しむでしょう。