日本文化について

日本語は「モノ作り」に適しているが、「コト作り」の機能に問題がある。日本文学がもつ論理性の問題に関連して、日本語で数学が記述できない(あるいは哲学的命題文が書けない)ことに、本質的な問題を抱えている。日本文化の歴史を通して言えることは、日本語が「コト作り」で世界を動かしたことがないということ。

 日本が日本語で世界を動かせる言説を開発できない(できそうもない)ことは、自然科学の論文が、日本語では通用しないことと軌を一にする。だから、人文科学の論文も、厳密には日本語では説得力をもたないのだ。

 そもそも、こうして日本語で書いているぼくの言説が、日本人にさえほとんど通用しない(ぼくの論説が説得力がない)のだ。その根本的な理由は、ぼくの文章を含めて、あらゆる日本語による言説が、本質的に私語であり、客観的な<A equals B.>という論理性ではなく、<AはBである>という話者の断定[判断]を払拭できないからだ。

 これは、西欧の近代が、文学の分野でも、現象を「語るtelling」のではなく、「見せるshowing」を目指したのに、日本語は「事象を事象として提示する」ことができない。現象/事象を「語る」ことしかできないのだ。

 この残念ながら言語的にはどうしても西欧的な論理性をもてないわれわれが、これからどう世界の国々の言説に対応していけるかは、国の存亡がかかった大問題と言わなければならない。ぼくの提案は、とりあえず、西欧語と日本語を時と場合によって使い分けることだ。

 

熊倉千之:『日本語の深層――<話者のイマ・ココ>を生きることば』 (筑摩書房2013)

熊倉千之:「近代日本の「コト作り」問題―『三四郎』(一九〇八)を例に」(前田雅之・青山英正・上原麻有子編『幕末明治 移行期の思想と文化』勉誠出版2016)