熊倉千之 著『紫式部集』のちから相撲  メイキング・オブ『源氏物語』

目次

はじめに ……10

第一章 独創的な歌の配列 ……19
 1 ライトモチーフとしての「月」 ……20
 2 『紫式部集』〈起〉部〈序〉「初句」五首 (#1-5)――物語の三要素 ……28
 3 <破の序>「第二句」七首(#6-12)――『源氏物語』の始動 ……31
 4 <破の破>「第三句」   五首(#13-17)―― 式部の行動開始 ……37
 5 「二行空白」の重要性  ……44
第二章 『源氏物語』の受胎と出産 ……49
 1 <起>部〈破の急>七首(#18-24)――宣孝の求婚 ……50
 2 <起>部<急>七首(#25-31)――宣孝求婚への反発と受け入れ ……55
 3 『源氏物語』最初の三十一首との比較 ……58 
 4 『紫式部集』〈承〉 部三十一首の  〈序〉――「初句」五首(#32-36)の夫婦げんか ……70
 5 宣孝と童友だち、二つの死―― 〈承〉部〈破の序〉七首(#37-43) ……72
 6 物語の出産と育成―― 〈承〉部〈破の破〉五首(#44-48)   ……76
 7 物語制作への没頭――〈承〉部〈破の急〉及び〈急〉十四首(#49-62) ……78

第三章 「憂き世」の実態 ……87
 1 <転〉部<序>最初の五首(#63-67)――『源氏物語』作者の憂さと密かな喜び ……88
 2 小少将との親交――<転>部<破の序>「第二句」七首(#68-74)……91
 3 道長を一蹴する式部――〈転〉部〈破の破〉「第三句」五首(#75-79) ……98
 4 ほととぎすを待ちわびた思い出――〈転〉部〈破の急〉「第四句」七首(#80-86)   ……101
 5 〈転〉部〈急〉「第五句」七首(#87-93) ――宮仕え後と『源氏物語』の主題  ……103

第四章 『紫式部集』の挑戦 ……109
 1 式部の生き甲斐――<結〉部   〈序〉「初句」五首(#94-98) ……110
 2 『源氏物語』の達成感――<結>部〈破の序〉「第二句」七首(#99-105)  ……112
 3 さま変わりする「憂さ」――<結>部<破の破>「第三句」五首(#106-110) ……116
 4 愛の総括「うちとけと拒絶」――<結>部  <破の急>「第四句」七首(#111-117) ……118
 5 小少将との「うちとけ」  (#69-74)再訪 ……122
 6 <結>部<急>「第五句」最後の七首(#118-124)――人生という挑戦 ……125
 7 式部の辞世四首(#125-128)――『紫式部集』の種明かし ……127
終章   封印された『源氏物語』五十五巻 ……131
 1 #127の真意――『源氏物語』が五十五巻として遺された理由 ……132
 2 『紫式部集』のマクロ構造 ……135
 3 〈起〉部後半の十四首(#18-31)再訪――――求愛の成就 ……139
 4   「辞世四首」――ミステリーの謎解き ……148
 5 『紫式部集』に埋められた小少将の物語――「匂兵部卿」以下の十三帖 ……152
 6 式部の芸術 ……164
 7 宇治十帖論のために ……178

おわりに ……186

 囲み記事 ……8・17・18・25・32・46・47・48・59・86・108・130
 参考文献 ……192
 『紫式部集』 128首 一 覧・索引 ……193
ホームページ案内 ……198

 

 

裏表紙
小少将が紫式部に挑んだ3番勝負:
1)なべて世の憂きに泣かるるあやめ草今日までかかる根はいかが見る(#71 小少将)
  何事とあやめは分かで今日もなお袂にあまるねこそ絶えせね(#72 式部)
2)天の戸の月の通ひ路鎖さねどもいかなる方にたたくくひなぞ  (#73 小少将)
  真木の戸も鎖さでやすらふ月影になにをあかずとたたくくひなぞ  (#74 式部)
3)雲間なくながむる空もかきくらしいかに偲ぶる時雨なるらむ(#116 小少将)
  ことわりの時雨の空は雲間あれどながむる袖ぞかわくまもなき(#117 式部)
 「私の書いたここまでの続編はどうご覧になる?」 との問いに式部は、
 「何をお書きか分からないけど、まあ続けてみて」と突き出します。二番目は、
 「私のどこがいけないの」に答えて式部: 「正編の結末が分かっていないのね」と
 極め出し、三番目は勝負にならず、いなされて小少将は簡単に土俵を割ってしまいました。

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<『紫式部集』の力相撲――メイキング・オブ・『源氏物語』>批評

<『紫式部集』の力相撲――メイキング・オブ・『源氏物語』>批評(2016年12月にいただいたもの)

 

1 Aさん 
                            
 まずは、本の体裁について。やはり詞書よりも歌の方が低い位置にあるのは、読みにくく感じました。慣れていないせいだと思います。
 次に、本の内容について。
① 紫式部集を31首のくくりで考える、という発想が面白いと思いました。しかし、その場合93番と94番の贈答歌が別のくくりになってしまいます。贈答歌を切り離して別のくくりにする、という所に不自然さを感じました。
② 二行空白、四行空白には、熊倉氏が指摘されているような意味があるのでしょうか。31首が一つのくくりだとすれば、なぜ31番歌のあとに空白を置かないのか、なぜ17番の後は2行で、79番の後は4行あけたのか、今一つ納得がいきませんでした。
③ 素数番の歌に着目されている根拠がよくわかりません。75ページでは、素数番の歌の第一音節を並べると「なついにし(夏往にし)」となると書いていらっしゃいますが、そのあとの素数番の第一音節を並べても意味のない言葉となります。「なついにし」に熊倉氏が考えていらっしゃるような意味があるのか、そもそも素数番の歌がそれほど意図的に配置されているのか、よくわかりませんでした。
④ 次は単純な疑問です。51ページ、140ページで、18・19番の贈答歌は宣孝とのものだと力説していらっしゃいますが、岩波文庫「紫式部集」18番の脚注にも、「浅からず頼めたる男の、心ならず肥前国へまかりて侍りけるが、便りにつけて文おこせて侍りける返事に」(新千載集、恋二、一二三一)とあります。この新千載集の詞書を使えば、もっとすっきり説明できたのではないでしょうか。
  但し、18番の「鏡の神や空に見るらむ」の解釈については、熊倉氏が、係助詞の「や」に疑いの意味がある、と指摘されている通りだと思います。
  岩波文庫の注も「見るらむ - 照覧されているだろう」とあり、係助詞の「や」が訳に反映していません。
⑤ 紫式部集の歌が源氏物語の歌と対応している、というご指摘はどうなのでしょう? 説明に挙げられた歌を見れば、なるほどと思う所もありますが、何か騙されているようでもあります。源氏の歌をきちんと読んでいないので何とも言えません。皆様のご意見を伺いたいと思います。


2 Bさん

 紫式部集を統一した歌集として読むという果敢な挑戦「力わざ」に敬意を表します。私自身といえば、紫式部集を一作品として全体像について眺めようといった体験をして来なかったことに気づかされました。歌集の一部もしくは紫式部その人を知りたい読みであることを反省しつつ、読み進めました。ただし、長年、作者が生きた時代の文学をとりまく環境、および思考のあり方に近づいて、できるだけその時代にもどして作品を見つめようという立場でやってきました。拠って立つ本文(テクスト)の伝流のあり方には、真っ先に注意をはらってきました。
 ですから、熊倉先生が拠ってたつ本文が、南波弘校注『紫式部集』で、紫式部本人の思考、歌集の組み立て方に直結して考える方向性に、なじめませんでした。現存する最古写本の実践女子大所蔵の定家本『紫式部集』よりも、お触れになっていますように、江戸期書写の陽明文庫本の方が、より古態であると私はかじった程度ですが、また論文を読んだ程度ですが、認識しておりました。現在の研究者たちは、定家の手をくぐった「定家本紫式部集」のように捉えていると思われます。定家本人の手かどうかはわかりませんが、南波校注本は「定家本」に和歌をさらにプラスしてありましたので、第何首目にあたるか「数理」を「紫式部」その人の考え方として判断材料にするには、疑問を持ちながら読み進めました。(具体的な例として、♯66~72など陽明文庫本に「日記哥」として別掲。小少将が関わります。さらには、歌集末尾も大きく異なります。) また、今までの校合体験から空白行や空白文字をことさらに置くのは、書写の際に本文に何らかのキズがあることを示すものと読んでいましたので、その点からも、紫式部に「直結」するのは難があると思ったのです。
 歌集全体を総体として眺めると、二つの本文系統ではどんな世界が広がっていくのか、御著書とどの程度くい違っていくのかなど、『紫式部集大成』をひらいて、時には影印を眺めながら、その差異を少しは見比べていくという体験を今回はしてみました。
 御著書にありますように、紫式部集について、配列を考え、グループごとに分けて読むというのは(区切り方の問題は別にしまして)、この家集の場合には有効らしいと刺激されました。拾い読みをしていた廣田収『『紫式部集』歌の場と表現』を、丸ごと読むという勉強の機会にもなりました。
 狭く範囲を区切って云々する多くの日本人研究者にもどかしい思いをしていらっしゃるのでしょう。
 コラム欄で、ホメロスやトーマスマン作品の「構造化」に触れていたり(25頁)、漱石をひきあいに出したり、全く知らない思考の枠組みが示されていて、他にも知らないことが多く、理解するまではなかなか到りませんが、いろいろお教えいただきました。(『栄花物語』は法華三十講にもとづくから、「三十巻」からなる、また巻十五は道長出家を描く巻で、法華経十五「湧出品」を指示しているなど、やはり平安時代にも意味があったらしいなどと思い出しながら。) 同時に、平安時代の「和算」がどの程度のものであったのか、時代に戻して読もうなどと思いつつ、まったく知らないことに愕然とし、なおざりにしてきた反省もいたしました。
 冒頭部の二首読解には、従来、暦月ではなく節気で把握するなど,苦しい読みが展開されてきたと思います。時間の流れは、1番歌→2番歌であり、別の年であってよいと説明なさっている点、確かにその方が無難なことだと思いました。1番歌は歌集の総序と見なす読みも納得です。父の国司赴任先でながいこと暮らして、帰京して久しぶりに再会したのが1番歌で、2番歌と同一人物なら、再度、赴任先に行くために京を離れるらしい、受領が同じ年に帰任と赴任する例は、その事務手続きからも、別の年にした方がよいのだと思いました。
 『源氏物語』の正続編について、作者に関係づけて説明されていらっしゃったのは、それだけ断絶を強く感じてのことと、そのような感性を私は持ち合わせておらず、全体の文章から受ける若々しい印象とともに驚きました。その理由付けには納得できかねますが、今後の読みに生かせるよう、受け止めていきます。


3 Cさん

 日頃授業で教えていることを、「根底から」は言い過ぎでも、「だいぶ」覆さないといけなくなってしまうな、と思いました。
 家集の百数十首であれば、意図して配列することもできなくはないのは容易に想像できますが、その『紫式部集』の配列が『源氏物語』に繋がっていく、『源氏物語』の数百首の和歌も意図的に配列されているとなると、巻の成立順が物語の進行順と同じではない、といったことが頭に浮かんでしまい、和歌だけ先に完成していたのか、とか、膨大な下書き用紙を調達できたのか、とか、考え始めてしまって、だんだんよく分からなくなてしまいました。


4 Dさん

 本書は、『紫式部集』を分析することによって、紫式部の意図を探ろうとした著書である。作者の意図を解明することは、文学研究の究極の課題と言えよう。しかし、作者の意図に迫るためには、その作品を伝えるテキストが作者の意図を正確に伝えるものかどうかを検証しなくてはならない。また、その作品が書かれた時代に引き戻して読んでいくことも必要である。
 具体的に言うと、著者がこだわっている『紫式部集』巻頭歌のあとの一行分の空白というものが、紫式部自身によって設けられたものであるという論証はどこにもなされていない。著者が引用している南波浩校注『紫式部集』の底本である実践女子大学本は、定家本系の最善本とされているが、室町時代末期の写本であり、紫式部の時代からは大きく隔たっている。一行の空白が、どの段階で設けられたものなのかを明らかにすることは難しい。したがって、その空白に紫式部の意図を読み取ることはできないと思われる。
 また、『紫式部集』巻頭歌の「月影」について、「童友だちの「こゝろ」の透明・清純感」を読み取っているが、「月影」に心の透明感・清純感を表した同時代の和歌の用例があるのかどうかの検証が必要であろうし、『源氏物語』において「月影」がどのような意味を持たされているかを検証することも必要であろう。
 全体をとおして、現代の感覚で分析を行っているような印象を受けた。

 

5 Eさん

 まず基本的な問題点としては、ある文学作品が数的概念によって意図的に構成されていると考えることの妥当性です。確かに、和歌の音数律とか漢詩の五言律詩とかを作品の骨格に据えるということはあり得たかもしれません。しかし、熊倉さんが指摘される素数とか友愛数とかは、一般的、日常的な概念ではなく、学問上の極めて特殊な概念です。もし漱石や紫式部がそうした概念を用いて作品を構成していたと考えるなら、彼らがすでにそうした素数とか友愛数とかの知識を持っていた、とまず客観的に証明する必要があると思います。ぼくにはそう読めるから、彼らも当然知っていたはず、というのでは証明にはなりません。
  たとえば、掛け算や割り算の知識は相当古くからあったものと思われます。なぜなら万葉仮名には、「十六」と書いて「しし」と読む例や、「二八十一不在国」と書いて「にくくあらなくに」 などと読む例があるからです。しかし素数や友愛数はそうした一般的な知識とはかなり性格が違うように思います。にもかかわらず彼らが特別な知識を持っていたとするならば、やはり具体的な例を示していただかなければなりません。
 ご著書の中で熊倉さんは、「ぼくが文学論に数字をもちだすと、せせら笑う文学研究の専門家たちがたくさんいるのです」と言っています。「せせら笑う」とはいやな言葉ですが、その中には当然私も入っているのだと思います。あるいは「たくさん」というのは一種の朧化表現で、もっぱら私のことを指しているのかもしれません。要するに私は、根本的なところで大きな問題があると、常づね思っているのです。
 肝腎の数字の扱いにも疑問があります。源氏物語54帖。そのうちいわゆる正編が41帖で、続編が13帖。正編は五言律詩の論理で書かれていると説明されるのですが、5×8=40で、実は物語のほうが1帖多いことになる。しかし若菜は上下に分かれているのでそれを1帖と考えれば辻褄が合う。「構造的には40巻と読むのです」と言います。一方「土御門殿にて、三十講の五巻、五月五日」に詠んだ歌は「五」が重なっているけれども、それは源氏物語が54帖で、雲隠巻を足せば55になるから、その「5」の重なりと関連があるのだとしています。先ほど1帖に数えた若菜巻をここでは本来の2帖に数え、しかも実体のない雲隠巻まで数えているのです。
 続編の作者は小少将とする問題も、非常に大きな問題ですが、格別の根拠もなしにそれを前提にして論を進め、強引に新しい説話を作りあげてしまっています。まさにタイトルどおり、これこそ大変な「ちから相撲」です。
 そのほか、こまかな問題もたくさんあります。
 8番歌の「遥かなるところへ、行きやせん、行かずやと、思ひわづらふ人」を「女性であると読む研究者がほとんどであることに驚かされます」と言っていますが、これはどう考えてもやはり女性でしょう。熊倉さんは任地に赴く夫の宣孝と考えているようですが、枕草子に描かれているように、受領層の男性が行う猟官運動は実にすさまじいもので、選ばれたことに喜びこそすれ、行こうか行くまいか思いわずらったりはしないものだと思います。
 また「世の中騒がしきころ」は、平安期の言い方としては主として人の死と関係していて、源氏物語が世に出て「騒がしきころ」とはとても読めないでしょう。行の空白の問題も、多くの混乱した写本を見てきた私などにはこれを文学論的に解釈する勇気はなかなか持てませんし、「宇治の物語」は「憂しの物語」との説も、「宇治」の仮名遣いは「うぢ」であって、絶対に「うし」と結びつくことはないと思います。
 細かなところにこだわるのは「ミクロに執着する余り、マクロが読めない評者の不毛な議論です」と断じておられますが、逆に、熊倉さんは「数的枠組みというマクロを追いすぎて、ミクロを疎かにしている」としか私には思われてなりません。
 これまでの「誤読」を訂するというかけ声のご本ですが、むしろ新しい、大きな「誤読」の出現になることを私は怖れています。

 

6 Fさん

 助動詞ケリが、鈴木泰氏の用語を借りていうなら、「非アクチュアルな意味を表し、過去の特定の時点と結びつけられないこと、伝聞や気づきによって得られた過去の出来事を表すことがある一方で、述語が主語の性情を特徴づけるものであることを示して脱テンス的意味になり、説明的機能を表」し、「場面の転換点を示したり、論理的関係で結ばれた出来事どうしや対比的な関係にある出来事どうしのまとまりを表したりなどして、物語を形作る事象がどのように有機的な結び付きを作っているかを示」すこと、(『改訂版古代日本語動詞のテンス・アスペクトー源氏物語の分析』ひつじ書房1999:351、352)、キが「過ぎ去った過去を表す」のに対し、ケリが「過去の出来事や普遍的な真理についての認識が成立したことや、そうした認識を所有していることを表す」(同書352頁)こと、などを表す、ということを述べておられるのかな、と読みました。そうであれば、ケリの捉え方としては穏当なものであり、異論はありません。
 しかし、用例の扱い方とその方法にもどづく論の進め方には抵抗を感じます。
  「けり」が重ねて使われていますが、式部だったらおそらく「き」を併用して、これほどまでに「けり」を使わずに書ける文です。(183p)
とありますが、塚原鉄雄(1987)が述べるように、『源氏物語』も『竹取物語』のようなテキスト構造をもっており、宇治十帖以外でも、
  いづれの御時にか、女御更衣あまたさぶらひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。(桐壺)
のように、時を表す表現ではじまり、「-ケル、-ケリ」のように助動詞ケリを用いて話をすすめ、
  ‥落としおき給へり習ひにしとぞ、本に侍める(夢浮橋)
と、物語世界から作者の世界へと統括して物語を終えているとされます。ケリを重ねて用いることは『源氏物語』では珍しいことではなく、むしろ語りの文体としては頻繁に用いられているものと捉えられます。これは、無自覚にではなく、当然旧草子を意識して用いられた語りの「型」であると考えられます。
 また、宿木でも「き」を使用した例はあり(鈴木2012:219)、宿木のキ・ケリの使用および、源氏物語のキ・ケリの使用から宇治十帖の作者が式部ではないというには、根拠が薄いように思います。
 次は、タリキの例です。
  紙燭さして歌ども奉る。‥上の町も、上臈とて、御口つきどもは、ことなること見えざめれど、しるしばかりとて、一つ二つぞ問ひ聞きたりし。これは、大将の君の、下りて御かざし折りてまゐりたまへりけるとか。
    すべらぎのかざしに折ると藤の花およばぬ枝に袖かけてけり(源氏物語・宿木)
なぜそこにタリキでなくタリケリが用いられているのか、ということを考え、タリキだったらどうなのか、と仮定することは、ケリとキの機能についてより深く考えるためのよい仮設だと思います。
 しかし、それを逆にして、(式部ならば)ここはタリケリでなくタリキのはずだ、というのは、たとえレトリックだとしても、実証的な方法になじんでいる身には違和感があります。
  内裏におはししを、御文きこえたまへりし御返し‥、いとあはれに思されしかば‥のような例は、むしろ違和感が強いのですが、加藤浩司(1998)は、たとえば『三宝絵詞』で、地の文の文末にケリではなく、キが多用される傾向について、
  また神通の力い坐して妙に衆生の心を随へ給ふ。火を変じて池となししかば勝蜜が門空しく過ぎき。水を踏むこと土の如くせしかば伽葉が船いたづらに去りきにき(仏趣、七-八頁)
のような例について、「仏教教義上重要な出来事」を、「実際に存在し、疑う余地もなく生起した事柄」として描くために「キ」をもちいたもの、としています。
 もちろん、物語と説話(とくに仏教説話)の文体を単純に同じと考えるわけにはいきませんが、そのくらい、文末をキでたたみかける文体はイレギュラーなものであり、そちらのほうが説明が必要なのだということです。 以上。
 引用文献
 加藤浩司『キ・ケリの研究』笠間書院 1998.10
 鈴木泰『語形対照 古典日本語の時間表現』笠間書院 2012.7
 塚原鉄雄『王朝初期の散文構成』笠間書院  1987.6

 

7  Gさん

 式部集の128首の和歌のうち、自身の歌が89首。うち、素数番の和歌が31首。源氏物語の和歌が全部で589首。ふしぎを発見できるご著書です。
 紫式部は、現代のようなパソコンを使って原稿を書いたのかしら、文系でなく理系頭なのかしら、素数フェチだったのかしら、などと想像しながら読むと楽しいです。
 集からうかがえる夫や友人との体験が、物語に影響を与えたということは、しごく当然のことと思います。しかし、式部が物語を完成したあとに「源氏物語の物語」として集を編み、そこに物語の仕組みをプレゼンしている(p31)というような、大胆なお考えにとても驚きました。
 あとがきに「作品の主題を明確にするためには、数的な論理性が文学の必須な原理であることを、『源氏物語』と『紫式部集』が明らかにしています(p191)」とあります。作者がどのような論理性をもって作品を書いているのか、解明することは難しいと思います。しかし、作品をテクストとして分析する際に、数的な論理性をもって読み直してみるということは、意義のあることだと考えます。そうして、ご著書にあるような法則性が浮かび上がってくるのですから。自然というものは、さまざまな偶然から成り立っていると思います。目に見えない不思議が、わたしたちの周りにあることを否定できないと思います。それを「偶然」とせず「必然」と認定するのは大変難しく、まさしく「ちから相撲」というタイトルが表すとおりです。
 しかしながら、文学と数的な論理の関係は、陰陽のごとく、相互に関係するものなのかもしれません。あたかも、光る君と、ライトモチーフの「月」のように。平安時代の人々が天文学に基づく暦に従って日々を過していたことは自明のことです。
 ちなみに、熊倉先生のご本にもなにか仕掛けがあるかと、5+7+7=19頁や19首目、31頁や31首目の歌、素数の頁などに注目してみましたが、まだ法則性や意図を発見するにいたっておりません。
 今年執筆させていただきました「文学・語学」の時評のタイトルを、「挑発する和歌」といたしました。文学研究には「挑発」が必要なのだと、再認識いたしました。ありがとうございました。

 

8 Hさん

私ども研究会会員全員に一冊一冊サインを入れた御著書をありがとうございました。
出版社を起業しての刊行という実行力、研究範囲の広さ、造詣の深さなどE先生より色々と伺っております。日本人的な曖昧さ、薄っぺらな謝辞を嫌う欧米的性格を持ち度量の深い方と先生は仰っておられました。若輩で浅学な私などが下記のようなことをぶつけても、お許しいただけるということなので、失礼とは思いながらも他の方々とできるだけ重複しない点で私なりの率直な感想、意見を述べさせていただきます。
 装丁について
正直なところ大変苦労致しました。
「昔の小説だったかに『パイプの煙を燻らしながら、一ページずつ切り裂いた』というような記述もある。熊倉先生らしい装丁だ」
と伺いましたが、不器用でせっかちな性格なもので、せっかくのサイン入りの御本が、きれいに切り開けられずボロボロになるにつれ読む気が失せてしまい、申し訳ないと思いながらもなかなか手が出ず、しばらく積んでおく状態になりました。
 数の概念について
E先生より、万葉の時代から九九算などを使っていた記述があることを教えていただいていましたので、私もあの時代の人々が、今でいうところの「素数」に気づいていた可能性は多分にあろうかと思います。
 「紫式部集」という家集の特性について
御著書を読むにあたり、新潮日本古典集成の『紫式部日記 紫式部集』にまず目を通しました。日記からは名指しで色々な人を批判し、また源氏物語の評価を気にしている作者の性格がよく分かります。しかし紫式部集には、自分の評価を知らしめ後の世にも遺せる献上歌、歌合の折の歌などが入っていません。E先生のもとで長年いくつかの私家集を研究してきた私も、他の集とは何か違うような気がしました。小説『源氏物語』、日記、家集、どれも世に流布されていくことを意識していた作者が、家集をどう位置づけようとして編んだのか確かに気になります。
最初の歌と最後の2首の関連性、また最初の歌の「雲隠れにし」に『源氏物語』の「雲隠れの巻」そして自分の死も含めて源氏物語に桐壺更衣や紫上の「死」を想起させようとしていることも同感です。とすると、そのあとに1行の空白を置いたのは、単なるデザインではなく、もっと深い意味があるように私は思います。
そんなことを考えながら御著書を読ませていただき、先生の視点に引き込まれそうになりながらも、何度も立ち止まり、読んだところを再度見直し、またその前後の歌に目を通すという、非常にしんどい「読み」となりました。
その原因は先生の「数」への拘りにありました。
・素数に物語として大事な意味をもつ歌をおく
・64番歌が128首の折り返し点
・初めから作品全体のかたちを40巻589首と決めていた、……家集の128首もこれしかない歌数として選ばれたもの
・最初の素数番の歌を並べ、それぞれの1句の第一音節を並べると〈なついにし〉となって…
 ・「五十日の夜」の「五」が、ここで歌番の89と意図的に結ばれて『源氏物語』の589首を象徴する…
御著書の後半に入り、ふと先生は何を底本にして分析されているのかと見直してみました。凡例で引用するテキストを、南波浩校注 岩波文庫(1978)と書いておいでです。しかしまた次のようにもお書きになっています。
「写本間のテクストの異同については、想定する作者の意図に則って最適と思われるものを採りました」
上記の断りの意味は何でしょうか?
残念ながら、岩波文庫が手に入らなかったので、南波先生にその責任があるのかもしれませんが、もしかして実践女子大本に欠ける歌を陽明本から補って、熊倉先生が番号付けをなさった? 実践女子大本は「をりからを」の歌が欠けているので、以後先生の御著書の番号と一つずつずれますよね。
先に例として挙げた先生のご意見は、一つ歌数が狂えばもはや意味を持ちません。まさに砂上に構築している城に等しいのです。言うまでもなく実践女子大本にしても、陽明文庫本にしても、紫式部が遺した原本ではないわけで、歌の番号付けに基づく分析は、危険きわまりない行為と言わざるを得ません。
先生の論に、ご自身の想定なさっている分析に、数や紫式部集、日記にある言葉を引き寄せようとなさっておられる節がところどころに見受けられます。例えば、3番や64-65番、123番を小少将とする理由はどこにあるのでしょうか?また下記の「月見るあした」が八月となぜ特定できるのでしょうか? 
 ・114に「月見る翌朝(つまり八月十六日)と詞書があり、次の115に「九月九日」とあって、それとなく〈8〉〈9〉を示唆しているように造ったりもしています。
 ・121の相撲の歌は七月と思われるので、114を八月とすると順番も狂います。
 私も「数」をもって客観的、論理的に分析研究したことがあります。全く文学とは関係ない母親の育児について、日本と韓国の母親にアンケート調査をし、2009年当時まだ主流だったSPSSという分析ソフトを使って数値を入れ比較研究しました。統計学を学部生に交じって勉強し、SPSSに向かい何十時間もかけ分析しました。パソコンに向かいながら、いつも頭の片隅あったのは、自分の想定する分析結果を導きだそうとしてはいないか?ということでした。
 パソコンでの分析でも、データの扱いや検定方法次第で自分の論に近づけることが可能なのです。「数」をもってしても客観的な分析がいかに難しいかを学びました。まして、定家自筆の断簡がわずかにあるだけで、歌集として整ったものは室町時代以降のものしかないという千年以上前の紫式部集。歌番号で論を構築するにも基盤となるところが明確でない以上、「数」で考えるのは無謀ではないでしょうか。
 御著書の誤読、理解不足な点があればご容赦ください。


9 Iさん

 私は大学で文学史を講義していますが、一般的に平安文学史においては物語(散文)史が中心におかれて、和歌と物語の繋がり、「かな」(和歌を記録するための文字と言ってもよい)の誕生及び和歌と歌集(勅撰・私家集・私撰集)の発展が物語等の散文世界を導いた、という視点が希薄なのが問題だと感じています。「かな」が生まれて広まったただけで、物語が、それも女流文学が突然変異のごとく花開いたのではないはずですから。
 また、伊勢、大和、竹取、うつほ、落窪、源氏と読み進め(「うつほ」については読破と言えないが)、玉上琢彌先生の「源氏物語音読論」(岩波現代文庫)を読むと、物語とその発展、享受に関して、玉上論に改めて敬服せざるを得ません。もちろん玉上論が全て正しいということも無いでしょうが…。このことと、私家集を読解することを中心に研究している立場とから見ると、熊倉氏の論は、大変面白く読める(所々に「紫式部集」の、魅力的な、しかし未検証の読み方が提示される)一方、我々の会のように私家集を注釈する者が繰り返す作業(用例検索等を中心とした様々な検証過程)を経ない論が断定的に繰り広げられることには、反発というか、呑み込めない部分が多すぎると言えます。

拙著『ちから相撲』に批評をお寄せ下さった皆様へ 熊倉千之(170104)

 この度は、拙著『ちから相撲』に多大の時間を割いて下さいましたことに、心より御礼申し上げます。単著としては六冊目ですが、漱石が嘆いたように、「誰も何もいって呉れるものは一人もありませんでした」という状況が続いていましたので、半ば無理にお願いしたようなところがあったかもしれませんが、このようなご批判をいただけたことを、何よりも嬉しく存じます。
 日本語では客観的な文章が書けないこと(そもそも数学の論説が厳密な意味で不可能であること、従って、西欧的な科学論文を日本語では書けないこと)を、日頃苦慮しております。ぼくたちは常に受取り手の気持を思って、発言を躊躇してしまいまいますが、それを続けたのでは、いつまで経っても日本文学の議論が進展しませんので、あるときから、ぼくの親しい人に向かっては、歯に衣着せぬ物言いをすることにしました。
 1980年ミシガン大学で日本古典を教え始めたとき、ぼくを雇った日本古典文学のアメリカ人の教授から、その前年に手ほどきを受けた学生たちが、ぼくが教える助動詞「けり」の意味が違うということで一騒動が起こりました。その教授は小西甚一先生の愛弟子の一人だったので、このことに「けり」がつくまでに、最後は小西先生がミシガンまで来て下さるという大ごとになったのも、今なつかしく思い出しています。
 ぼくはその「けり」論を、それ以来今日までずっと続けている頑固者です。その主張の一部は、拙著『日本語の深層 <話者のイマ・ココ>を生きることば』(筑摩選書0022、2011)をご参照ください。「けり」に執着したお陰で、『源氏物語』「御法」巻で「けり」が使われた一文を、過去一千年誤読してきたことが発見できました。それは、紫上が六条院ではなく二条院で死んだと、ずっと読まれてきたことに関わります。そして、その「けり」を最初に誤読した読者の一人が、なんと続編の作者だったのです。(拙著<『源氏物語』深層の発掘 秘められた詩歌の論理>(笠間書院2015)参照)
 そんなわけで、前書きが長くなりましたが、いただいた文章をすべて匿名にして、ぼくのサイトの<『紫式部集』のちから相撲>のコラム(つまりここ)に掲載することをお許しください。そこに、各論として、皆さんのご批判に、少しずつぼくの感想を貼り付けてまいります。(www.mochiifu.com)
 ここでは、Eさんのご批判が全体の総括にもなっていると思いますので、そのぼくなりの釈明をまずいたします。

 

(Eさん)まず基本的な問題点としては、ある文学作品が数的概念によって意図的に構成されていると考えることの妥当性です。確かに、和歌の音数律とか漢詩の五言律詩とかを作品の骨格に据えるということはあり得たかもしれません。しかし、熊倉さんが指摘される素数とか友愛数とかは、一般的、日常的な概念ではなく、学問上の極めて特殊な概念です。もし漱石や紫式部がそうした概念を用いて作品を構成していたと考えるなら、彼らがすでにそうした素数とか友愛数とかの知識を持っていた、とまず客観的に証明する必要があると思います。ぼくにはそう読めるから、彼らも当然知っていたはず、というのでは証明にはなりません。

(熊倉)漱石の友愛数については、12月9日に刊行した<漱石のどんでん返し――『坑夫』から『明暗』への友愛世界>(モチいふ叢書02)で、漱石の『坑夫』からの9作品が、友愛数を「構築原理organizing principle」としたことについて、充分証明したつもりです。9作品の朝日新聞連載回数の総計は、1111 (101x11)回という「美しい」数値なので、もう少しでぼくは、漱石が百年後の自らの101回忌に、『古今集』の1111首(墨滅歌の11首を含む、その最後は貫之の歌)に肖ろうとしたのではないか、とまで書こうと思いましたが、これは勇み足として止めました。(ぼくは『古今集』の<1100+11>首を、貫之のミセケチだったら面白いと思っています。)
 紫式部の素数については、ギリシャの昔から、数学の難問中の難問で、未だに数学者が数式化できないので、素数そのものが「数的概念によって意図的に構成されて」と言えるような性質のものではありませんから、文学にそのまま援用できる数理でないことは、当然です。ぼくはただ、素数一つ一つのユニークさ(1とそれ自身以外では割り切れない自然数)に、式部が気づいていたと思われる例を、テクストの中に<31>とか<19>とか見つけたと言いたかっただけです。たとえば、「幻」巻に源氏の歌が19首あることとか、紫上が亡くなった後、物語の末尾までに、その死を悲しむ歌が31首あることなどを、式部の意図的な配置として見出したのです。ただし、この二つの素数の積が<589>であることと、それが『源氏物語』の歌の総数となるように、式部が物語を構造化しようとしたことは、「意図的な数的概念」で、それが『源氏物語』の構造的な出発点です。そのことを、拙著<『源氏物語』深層の発掘>で明証したつもりです。
 589首ある『源氏物語』の歌の中で、源氏の歌は221首ありますが、その最初の歌を物語の第19(素数)首とすることに、ぼくは意味がある(式部が意識的だ)と考えました。その第一の理由は、589=31x19だからですが、19首目に源氏の一番歌がくる確率は、ぼくの計算では一万分の七くらいなので、これは明らかに偶然ではなく、式部がここに源氏の最初の歌を置こうと書き始めから考えていたという判断です。
 また、221首の源氏の歌のうち、155(31x5)首が、40巻前半の最後の巻「朝顔」までに詠われていて、物語前半と後半とでは、源氏の歌はアンバランスに配置されている(前半に偏りすぎている)ことに意味があると考えました。それは、源氏の恋の物語が前半で終わっていること、「少女」巻からの後半は六条院の意味(つまり女性たちの生の意味)が問われていること、それが「御法」巻の紫上をはじめ女性たちにつながる問題提起だと読みました。
 Eさんには賛成していただけないかもしれませんが、ぼくは『源氏物語』の主人公を紫上としています。「御法」巻で紫上は、夫源氏への最後の抗議を、女性にも出来る法会というかたち(指標・象徴的な行為)で秘かに遂行したからです。この一事が『源氏物語』の意味を「どんでん返し」し、女による女のための物語として、『源氏物語』を読もうというのがぼくの提言です。ですから、『紫式部集』の66番歌――土御門殿にて、三十講の五巻、五月五日にあたられしに 妙なりや今日は五月の五日とて五つの巻の合へる御法も――の「御法」に、式部が籠めた意味(5という素数を繰り返す、五言律の意味)を重要だと感じるのです。「妙なりや」は「御法」巻を造り果せた式部の快哉、至福のときです。
物語中に紫上の歌が23(素数)首あるうちの第3(素数)首を、『源氏物語』論を書いていて「賢木」巻に見出したとき、不覚にも発見の喜びの涙を流してしまいました。そこに風と露があったからです。
 (紫#3)風吹けばまづぞみだるる色かはる浅茅が露にかかるささがに(#151「賢木」)
 (紫#23)おくと見るほどぞはかなきともすれば風にみだるる萩のうは露(#556「御法」)
「賢木」巻で源氏の誠実な行いを待ち焦がれた紫君が、紫上として最後に詠う23番歌の無念のほどを思うとき、3も23も151もみな素数であることの象徴性を、ぼくは式部が紫上の「ユニークさ」の性格付けとしたと読みました。
 ですから、『源氏物語』制作の原点に、『古今集』589番歌、貫之の――
   露ならぬ心を花に置きそめて風吹くごとに物思ひぞつく
があったことは、上記の紫#3#23歌がいい加減な配置でないこと、式部が「露」と「風」という貫之のモチーフを援用したことに感動するのです。貫之の歌が『古今集』の589番にあるのはただの偶然でしょう。しかし、それを援用しようとする式部は、詩的な作業に胸を膨らませています。式部にとって貫之は、恐らく一番尊敬した文学者だったろうからです。『源氏物語』の2番歌――
  (桐壺帝)宮城野の露吹きむすぶ風の音に小萩がもとを思ひこそすれ
こうして、露も風もあるところから素数番の歌は始まるのです。帝の喪失感に始まり紫上の喪失感で終わる『源氏物語』は、『紫式部集』でも同様に、2番3番の歌の重要性に引き継がれています。そこが読めなければ、この家集の意味はないと極論したいのです。
 Eさんが冒頭におっしゃった「ある文学作品が数的概念によって意図的に構成されていると考えることの妥当性」は、『紫式部集』3番歌と122番歌が前後の対照性によって繋がっているので、そこに「意図的に構成されていると考えることの妥当性」があると、確信できます。同様に、127番(31番目の、家集中最後の素数番)歌は、式部の幼友達の「かたみ」として詠まれているのですから、2(最初の素数)番歌とその前後の対照性から、「意図的に構成されていると考えることの妥当性」が明証されます。「妥当性」は、この2例だけでも充分と考えますが、『紫式部集』に素数番歌が31首あること、つまり、この歌集に131首(32首目の素数番歌)まで入集させない方針に、式部の意匠を見出すのです。穿った見方をすれば、集中の二行空白、四行空白の意味が、作者によって削除された3首の指標と考えていいのかもしれません。それほどまでに、式部のテクスト生成には、数理による芸術の構造性が証されると考えています。

 

(Eさん)肝腎の数字の扱いにも疑問があります。源氏物語54帖。そのうちいわゆる正編が41帖で、続編が13帖。正編は五言律詩の論理で書かれていると説明されるのですが、5×8=40で、実は物語のほうが1帖多いことになる。しかし若菜は上下に分かれているのでそれを1帖と考えれば辻褄が合う。「構造的には40巻と読むのです」と言います。一方「土御門殿にて、三十講の五巻、五月五日」に詠んだ歌は「五」が重なっているけれども、それは源氏物語が54帖で、雲隠巻を足せば55になるから、その「5」の重なりと関連があるのだとしています。先ほど1帖に数えた若菜巻をここでは本来の2帖に数え、しかも実体のない雲隠巻まで数えているのです。

(熊倉) 古来『源氏物語』にあるテクストのない「雲隠」巻は、ぼくにも『紫式部集』を分析するまで謎でした。式部の書いた『源氏物語』が40巻か41巻かは、構造的には40巻だが、読者の目を眩ませるために作者が「若菜」を上下に分けたのだろうと考えて、拙著『深層の発掘』ではそう書きました。ともあれ全体を40巻と見るポイントは、最後の結論部分(序破急の急部分)の意味ブロック8巻が、「藤裏葉」に始まり「幻」に終わるという主張で、それは池田亀鑑の『源氏物語』三部構成の注解に逆らう論点でした。六条院の再生を式部が意図したのだから、「藤裏葉」巻での冷泉帝・朱雀院の六条院への行幸は、その始まりだというのがぼくの読みです。その40巻論は『源氏物語』の主題に関わって大事な議論ですが、そのあとの55巻説には全く連動しない議論です。それは以下の理由からです。
 『紫式部集』の「雲隠れにし夜半の月影」という1番歌の「雲隠れ」という文言を想起したとき、そして続編の作者で式部より若い小少将が先に亡くなってしまうという事態が出来したとき、式部は童友だちの「かたみ」としての小少将が書き残した「うちとけ文」を、『源氏物語』の一部として抱え込むことにしたのだ、というのがぼくの推論です。そこで象徴的な「雲隠」の文言を空白の巻名として新たに付け加えれば、正編と(式部には不満はあるものの、続編の作者の死も悼んで)小少将の作を繋げる事が出来るという式部の判断です。その結果、全体が「五十五巻」に見える、さきの66番歌にも繋がって「めでたし、めでたし」というくらいの意味で、式部も小少将の死がもたらした偶然を、これでよしとしたのではないかと書きました。拙著p.12-6は、数字が40・41と矛盾を承知の上で、千年もの間、「雲隠」巻が遺されたわけ(p.133)を推論したかったまでです。
 Eさんは「実体のない雲隠巻まで数えているのです」とおっしゃっていますが、『紫式部集』1番歌のあとに一行の空白行(『源氏物語』の主題が雲隠れした無念、喪失感、p.13)があるのは、作者の意図のうちで、「雲隠」巻をも示唆したかったからだと、ぼくが読みたいからでした。象徴的に「雲隠」巻以降は、大きな断絶があるということです。自作とはっきり区別するために、式部が己れの芸術保全の意味をももつ空白巻を、敢えて置いたと読むのです。

 

(Eさん)これまでの「誤読」を訂するというかけ声のご本ですが、むしろ新しい、大きな「誤読」の出現になることを私は怖れています。
(熊倉)「新しい、大きな「誤読」」とおっしゃるので、拙論が総じてダメというご判断でしょう。そして、この「大きな誤読」は、すでに世に出てしまっています。ぼくは今まで自分の書いたものが全面的に否定されたことがないので、これはぼくにとってむしろ嬉しい事態です。叩かれるほど快感を感じたら、ただのマゾに思われてしまうでしょうが、冒頭に指摘された数理の否定が、今後の争点になるでしょう。つまり、31首ずつに括るという「構造」が、ぼくの妄想かどうかということです。
 ということは、拙著p.136の構造表もダメということになるでしょうが、それならば、代案をお示しいただけませんか。ぼくの文学論の根底には、「構造signifier」が「意味signified」をもたらすという原理があります。ですから、『紫式部集』に構造がなければ(あるいは見えなければ)、それは歌がただ並んだだけの歌集で、文学作品ではありません。今までの『紫式部集』論には、明確な構造を指摘したものがありません。ぼくは、この家集には31首を4回繰り返す「構造signifier」があり、その「意味signified」は、〈『源氏物語』の物語〉だと主張するのです。

   拙論が大誤読だとしたら、ぼくの本は文学論ではなく、文学作品、たとえば「式部の主題による変奏曲」になっているのかもしれません。それはそれで別の意味をもつテクストになりえます。もしかして、図らずもぼくは創作をしてしまったのかもしれない、と。ぼくはそれほどうぬぼれてはいませんが、少なくともぼくの『ちから相撲』には「構造」があります。その一つは、「はじめに」を5-7-5の17パラグラフで、また、「おわりに」を7-7の14パラグラフで書いて、式部の芸術に肖ろうとしたからです。また、五章を5-7-5-7-7に細分化してもいるからです。しかし、こうしてぼくの秘密を明かしてしまうところが、芸術家に及ばないところです。式部は、親友の小少将にも、『源氏物語』の主題を口が裂けても証さなかったからです。それは、『源氏物語』が千年間長生きする手立てでした。ですから、残念ながら、ぼくの『ちから相撲』は芸術作品になりえません。

 

(Eさん) ご著書の中で熊倉さんは、「ぼくが文学論に数字をもちだすと、せせら笑う文学研究の専門家たちがたくさんいるのです」と言っています。「せせら笑う」とはいやな言葉ですが、その中には当然私も入っているのだと思います。あるいは「たくさん」というのは一種の朧化表現で、もっぱら私のことを指しているのかもしれません。要するに私は、根本的なところで大きな問題があると、常づね思っているのです。

(熊倉) ここはEさんの大誤解です。Eさんにお話しする前に、式部集については、Xさん(平安文学)とYさん(和歌文学)というかなり親しい友人にぼくの分析をお話ししました。お酒の入った夕食をともにしながらの和やかな雰囲気の中でのことです。そのとき、ぼくが数字をあれやこれや口から出任せにしましたので、二人には全く真面目に聞いてもらえませんでした。「せせら笑われた」と感じたのはそのときのことです。
 しかし、ぼくも真剣です。日本語では数学が記述できない、したがって、厳密な科学的言説の手段がない。その証拠に、日本人ほどの温かい心をもった人々の国が、いつも外国の言いなりになってしまうことの悔しさを、明治以来の日本人は身にしみて体験してきたのです(最近の出来事では、真珠湾慰霊とプーチン来日が象徴的、二人の大統領に安倍首相は言い負かされてしまいました)。日本語は「モノづくり」に優れた言語です。しかしながら、「コトづくり」に問題があることを、ぼくたちはこれから何とかしなければなりません。(熊倉千之「近代日本の<コト作り>問題――『三四郎』(一九〇八)を例に」、前田雅之ほか編『幕末明治――移行期の思想と文化』勉誠出版2016、p.432-447)

 日本の文学作品も、ある種のきちんとした論理性をもたなければなりません。式部は持論を論理的に物語るための方策を、五言律詩(F)と三十一首(f)の数理で説得しようとしたのだと考え始めてから、かなりの時間が経ちました。しかし、『紫式部集』に続編の作者まで登場していると読めたのは、『深層の発掘』を書いたあと、ここ一年の出来事です。拙著が笑われたことは、ぼくにとって何よりの励みになります。齢80にして、未だぼくが舌足らずの青二才だからですが、説明不足は少しずつこのコラムで補修してまいります。妄言多謝。(AさんーIさんへのお答えは、このコラムの一つ下に「批評・反論」として掲げます。)