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「(日本語の)語り」の言語を理論化してゆく。

 書き手(作者)の声が聞こえ続ける日本語による文学のありようは、『源氏物語』であれ、漱石の小説であれ、書き手の声を消すという、西欧の近代が目指した主義を取り込む余地がない。どんなに押さえようとしても日本語では、はっきりと書き手の声が聞こえる。西欧の近代の理想(西欧の科学がもった「客観objectivity」という理想)は、日本語では、原理的に達成不能なのだ。

 西欧語は、あるものをあるがまま提示する、という言語機能を本質とするが、日本語は話者(語り手・書き手)の声をそのまま聞かせようとする。

 この一事を無視した日本語・日本文学についての言説は、認識不足としてすべて退けることにしよう。

 このぼくの主張に賛同されない方は、忌憚ないご意見をお寄せ頂きたい。

ここに論点を集中させることこそ、生産性のある言説となるはずだから。